近づいてくる子供たちの足音に慌てた恵美子は、目の前に立つ清三の体を押しのけるようにしてトイレから飛び出した。
「あ、あら――― もう遊ばないの?」
「・・・・・・うん。僕はまだ遊びたいけど、香住が帰るって言うから」
乱れた髪を両手で整えながら、コテージの中に駆け込んできた子供たちに恵美子が声を掛ける。母親の息を切らせたような言葉に長男の正彦が消化不良気味に答えた。
「そう、疲れたのかしら」
長女の頭を優しく撫でて、自分が出てきたトイレの方向に視線をやった。中にいる清三は出て行くタイミングを計って気配を消していた。
「何か飲む?」
「オレンジジュースがいい」
「香住はりんご」
母親が出てきたばかりのトイレから清三がいきなり現れれば、いくら7歳の子供だからと言っても不自然に思うだろう。
子供たちの意識を逸らすために後ろめたい気持ちを覚えつつ飲み物を勧める。そんな恵美子の口元を香住が凝視していた。
「な、何かしら?」
「ママの口からおひげが生えてる」
「―――お、おひげ?」
長女の言った意味が理解できなかった恵美子は、手の甲で口の辺りを拭う。そして拭った手の甲に視線をやってぎょっとした。
そこには1本の縮れた陰毛が付着していたのだ。誰のものかは分かっていた。子供の純粋な指摘に顔が真っ赤に染まる。
「―――2人ともコップを持ってきなさい」
冷静に言った恵美子は、背を向けた子供たちの陰で清三の陰毛を急いで振り払った。
子供たちがそろってコップを取りに行くと、トイレから水洗の音が聞こえて、清三が何食わぬ顔で出てきた。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
暫くしてコテージの外に車が止まった。
降車した正志と梨花に出迎えた清三が声を掛ける。
「遅かったな」
「す、すごく混んでたんだ」
清三の率直な感想だった。
掛けた言葉に深い意味は込められていない。それでも、やましい気持ちを抑えられない正志の声はうわずっていた。
「そうなのか・・・・・・ 俺は行かなくて正解だったな」
管理事務所の方向に顔を向ける清三。まさか自分の妻とカーセックスを愉しんでいたとは思わないだろう。
「あなた、その言い方はないよね」
「そうかな? 俺はいつも通りの言い方だけど」
「いくら同期だからって筒井さんに失礼じゃない? あっ、もしかしてヤキモチとか? 私と筒井さんが遅かったから・・・・・・ 自分を棚に上げて―――」
「―――なんだとっ!!」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
目を見開いた清三が大きな声を上げた。
目の前でヒートアップしてゆく川野夫婦の言い合いに、困り顔の正志は声を掛けて間に割って入った。
「少し愚痴を聞いてもらったのよ」
夫から顔を背けた梨花がふくれっ面で言った。
妻の一言に訝し気な表情の清三が、ゆっくりと視線を正志に移す。
さっきまで梨花とセックスをしていた正志は、頭を掻きながら深い溜息をついた。
「愚痴ってなんだよ」
「それは内緒――― ねっ、筒井さん」
梨花は暗に夫の過去の不倫のことだと言いたいのだろう。清三の問い掛けに意地悪く答えると、正志の方を向いてウインクする。
苦笑いを浮かべた正志は、内心の焦りをコントロールしつつハッチバックドアを開けてレンタルした釣り竿に手を伸ばした。
「まあいい、話は帰りの車の中で聞こうか。片付けしている恵美ちゃんを手伝えよ」
「ふん! 言われなくても、そうするわ!」
突き放したように清三が言うと、捨て台詞のように返答した梨花がコテージの中に入ってゆく。ドアをくぐる瞬間、振り向いた梨花が正志に向けて小さく笑った。
「あいつと何を話した?」
「川野の女癖、かな・・・・・・」
昨夜の清三と恵美子の不貞を思い返した正志は、意地悪く含みを持たせた言い方で様子を窺う。しかし当の本人は、恵美子との不貞を知られているとは露ほども知らず、「誤解があるな」と独り言のように呟いて、残りの荷物に手を伸ばした。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
正志と清三が子供達を連れて釣りに出掛けると、コテージに残った恵美子と梨花が昼食のカレーの準備に取り掛かった。
「梨花――― いいことあった?」
「えっ!? な、何もないよ」
「なんだか昨日とは雰囲気が違う感じがする」
「恵美の気のせいじゃないの? ただ自然の中で気分が晴々した感はあるけど」
まさかセックスして欲求不満が解消したとは言えない。それも相手が親友の夫である。梨花は背中に冷たい汗をかいた。
「そうかな・・・・・・ なんだか嬉しそう」
「恵美の方こそ肌が艶々してるわよ。―――図星?」
昨夜の不貞の気配を、筒井夫婦の健全な営みだったと勘違いしている梨花。
その親友の言葉に、恵美子は心臓を鷲掴みされたような衝撃を受けた。
「―――!?」
「してたでしょ?」
「えっ!?」
「聞こえてたの。凄く盛り上がってたの知ってるのよ」
「・・・・・・」
「大丈夫よ。正彦くんと香住ちゃんはぐっすり眠ってたから。でも、もしかしたらうちの旦那は起きてたかもね」
悪戯っぽい笑みを浮かべて梨花が言った。
親友の言葉を聞きながら、恵美子は会話の内容を頭の中で整理する。そして梨花が、自分と清三のセックスを、自分と夫のセックスだったと勘違いしていることに気が付いた。
「お、起きてたのね」
「目が覚めちゃって・・・・・・」
「見たの?」
「ちょっと、覗き魔みたいに言わないでよ。声だけだから――― してる声を聞いてそのまま寝たわよ」
「そ、そうなんだ」
「うん」
親友にゲスな不倫を直視されてはいなかった。恵美子が安堵したところで、調理中の鍋が吹きこぼれ2人の会話は中断した。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
どの竿にも当たりがない。
傍から見れば達観した仙人のように静かに釣り糸を垂れている正志―――。
しかし頭の中では妻と清三の不貞と、梨花とのカーセックスの場面が繰り返し巡っていた。
隣の清三がうんざりした顔で口を開く。
「これ・・・・・・ 確実に詐欺だよな。帰りに返金してもらうか」
「・・・・・・」
愚痴を言う清三に、無言の正志。
「そろそろやめるか」
「もう少しだけ」
竿を上げた清三に、懇願する表情の正彦が言った。
「分かった。もう少しだけな。帰りの時間もあるし」
「うん。絶対に釣ってやる」
キャンプの日程は一泊である。昼食後に帰途に就く。
「今度おじさんが海釣りに連れてってやるよ」
「えっ!? 本当! 行きたい!」
「約束だ。次はみんなで釣りに行こう」
「やったー!」
力強く言った清三の言葉に、正彦はガッツポーズを作る。
息子と勝手な約束をした清三を横目に、正志は小さな溜息をついた。
―――みんなで、か・・・・・・。
清三の言葉に引っ掛かりを覚えて、正志は心の中で呟いた。
妻と清三の不貞の記憶が蘇る。
しかし胸の奥の痛みは、不貞の事実を知った時よりも明らかに和らいでいた。
それは清三の妻である梨花とセックスをしたことで、自分も同じ立場に立ったからなのだろうか。考えれば考える程、正志は途方に暮れる。
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