出発の準備が整うと、妻の恵美子が家の戸締りを確認して回り、正志は子供たちに靴を履かせた。
2階を確認した恵美子が階段を降りてきたタイミングで来訪を告げるチャイムが鳴る。そして玄関にいた正志が返事をする間もなくドアが勢いよく開いた。
「遅れて悪い―――」
普段から自信がないようなか細い声の正志とは対照的に、エネルギッシュで野太い声。玄関先に現れた男は一緒にキャンプに行くもう一家族の主で名前を川野清三といった。
両手を合わせて謝っている清三の後ろには、妻の梨花が立っていた。
「ごめんなさい。私の準備が遅いから」
可愛らしいキャンプコーデを見れば、夫を支える梨園の妻としての発言ではなく、本当に自分の準備に手間取ったのが窺えた。
「―――おはよう。余裕を持って計画を組んでるから大丈夫だよ」
2人を笑顔で出迎えた正志。正面に立つ清三は頭1つ分背が高い。体格からしても対照的な2人だった。
「今日はよろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしく。子供たちがすごく楽しみにしてるよ」
正志の言葉に、子供好きの梨花はぱっと花が咲いたような笑顔を見せた。
川野梨花―――恵美子の大学時代からの親友で、豊満な体の恵美子とは対照的に線の細いスレンダーな体型をしている。
ショートヘアが良く似合う整った小さな顔と愛らしい大きな目は、テレビに出ている女優と比べても遜色がなく美人と言えた。
「私も楽しみです。遅れたこっちが言っちゃダメだけど早く出発しましょう」
「もう準備は出来てるからいつでも出発できるよ」
右手の拳を突き上げるようにして言った梨花に、笑顔で応じる正志。そんな2人のやり取りに水を差すよに清三が口を開く。
「いつもと違って手際がいいな」
その言葉を正志は聞こえなかったかのように無視をした。悪意があるのかと言われれば、小さなものに拘らない豪胆な気質の清三だ。真意は分からない。しかし正志はキャンプの日にまで嫌な気持ちにはなりたくなかった。
清三が発した言葉の「いつも」とは、2人の『職場』を指す言葉だった。
梨花に向けていた笑顔。途中から正志の内面には、笑顔とは別の感情が去来していた。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
筒井正志と川野清三は入行の同期である。
清三の歳は正志より5歳上だった。
清三は地方銀行の前に、大手都市銀行に勤めていた経歴があったのだが、家庭の事情で退職し地元に帰ってきていた。
今の銀行に再就職し、新卒の正志と同期になったのが縁で知り合うことになった。
清三には前職で培ったノウハウがあり、直ぐに一目置かれる存在となって、同期の中では早々と役席に座った。
外見は、小柄な正志とは違い、大学時代にラグビーで鍛えた肉体を今も維持した身長18センチを超える巨漢で、一見して地方銀行の行員には見いない。
2人は入行後の職場が異なったのだが、同期ということもあり研修先などで顔を合わせると明け方まで酒を酌み交わし気心が知れる仲となった。
また、仕事以外で2人の関係を近づけた要因があった。
それは、恵美子と梨花の関係である。これは全くの偶然であるが、恵美子と梨花は大学時代からの親友だったのだ。
結婚した恵美子が、ある日、親友の梨花から、「新しい彼氏ができた」と清三を紹介され、その彼氏が夫の同期であったことから世間の狭さに驚いたのだった。
入行後、同期の枠を超えて友情を培ってきた正志と清三であったのだが、その関係に歪が生じたのは今春の人事異動で清三が正志の直属の上司になってからだった。
歪みといっても正確には正志側の感覚である。
ある時は上司、ある時は同期という清三の無意識だと信じたい振る舞いに大きく戸惑い、最近では寂寥感のようなものを抱くようになっていた。
―――笑顔とは違う内面の感情には、こういった背景があったのだ。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
8月初旬の、よく晴れた朝―――。
二家族は、一泊の予定で県北部のキャンプ場へ向かうために、新築の筒井家を集合場所としていた。
筒井家が7人乗りのミニバンを購入したことから、恵美子が親友の梨花にキャンプの話を持ち掛けて今日に至る。
正志にしてみれば、同期であり上司でもある清三との職場での微妙な関係を考えると気が重かった。
両家は過去に一度、キャンプに一緒に行った事がある。
その時は、互いの車で分乗して行った。しかし今回は、筒井家が7人乗りのミニバンを購入したことから、1台に同乗してキャンプへ行く事になったのだ。
「恵美ちゃん、久しぶり」
玄関先に立った清三が、遅れて顔を出した恵美子に屈託のない笑顔で声を掛ける。
「お久しぶり、川野さん。梨花は3日ぶり?」
さっきまでの不機嫌さに蓋をした恵美子が笑顔で答えた。
恵美子と一緒に顔を出した香住が、梨花を認めると傍に駆け寄り梨花の履いた短パンから生える真っ白い生足に纏わりつく。
「わーい、リンちゃん~~~」
「お姉さんと一緒にキャンプ行く人この指止まれ!」
清三と梨花の間には子供がいない。そのためか梨花は実の子のように筒井家の子供たちに接し、何かを感じ取るのか子供たちも梨花によく懐いている様子だった。
「それじゃあ、そっちの荷物を載せ替えたら出発しようか」
香住と梨花がじゃれあっているのを尻目に、正志は真夏の太陽が照付ける庭先へと出た。
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