翌日の午前中―――。
浅子が出勤すると、矢萩田のトラックは定位置になかった。
矢萩田のトラックは、週に一回から二回程度は、店の駐車場を利用した。昼過ぎに現れると、弁当などを購入して車内で休憩する。その後、ラッシュの時間帯を避けて、その日の内に東京方面へ出発した。夜通し高速道路を走って、目的地を目指すのだ。
―――もう来なければいいのに
矢萩田の様子を思い返す度に、浅子は心の中で思う。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
週が明けた月曜日の昼過ぎ―――。
レジに立っていた浅子は、馴れ馴れしく片手を上げて来店した矢萩田を認めて苦い顔した。
「また来たで。大きいのが漏れそうや、ちょっとトイレ借りるわ」
「どうぞ」
感情を表に出さないように努める、冷たい浅子の声が店内に響いた。
―――もう気持ち悪い。いちいち言わないでほしいわ
店長の谷村の姿は、店内のどこにも見当たらない。理由をつけては、バックヤードに引っ込む癖があった。セクハラ店長でも、苦手な客の来店時には、一緒に居てほしいと浅子は思うのだ。
「おい」
矢萩田の来店に気を取られていた浅子の目の前に、いつの間に若い男の客が立っていた。
「い、いらっしゃいませ」
慌てた浅子は、声を詰まらせた。
目の前の男は、高校生の二男よりも幼く見えた。ただ、息子達と違って服装は乱れ、どこか刺々しい印象だった。
若い男の客は、缶ビールを数本抱えていた。よく見ると、少し離れた後方に、仲間と思われる二人の男が立っていた。目の前の若い男の客は、眼光鋭く浅子を睨みつけ、「早くしろよ」と会計を急がせた。
商品と客の顔を交互に見た浅子は、少し緊張気味に口を開いた。
「お酒でしょ。未成年には売れないのよ」
おっとりとした性格ではあったが、浅子はけして弱い性格ではなかった。元来の生真面目さもあり、きっぱりとした口調で販売を拒否したのだ。
大人しそうな女性店員を選んだつもりだった客の男は、想定外の浅子の態度に驚いた様子だったが、後方の仲間の存在を意識してすぐに気を取り直した。
「糞ババアー! 俺を舐めてんのかよ!!」
―――まっ、ババアですって!?
世間知らずの浅子は、息子達より若そうだというだけで、男達の評価を誤っていた。何故なら、若い男達は地元の暴力団と繋がりが噂されている暴走族のメンバーで、浅子が手に負えるような相手ではなかったのだ。
「俺の歳を知ってんのか? 客に売らないって? もし俺が成人してたらどうすんだよ!」
若い男の客が大きな声で凄んで言うと、浅子の目には相手が急に大人びて見えてしまう。
「・・・・・・あ、あの」
―――見た目が若いだけで、もしかしたら成人なのかも
動揺した浅子は、正常な判断が出来なくなっていた。
「どうしたよ。それが客に対する態度か? 謝れよ」
大きな声を張り上げた後、客の男は声のトーンを落とし凄みを利かせて謝罪を要求した。強弱をつけた声の発生は、精神的に相手を追い詰めるのには効果的な手法だ。客の男は、明らかに手慣れていた。後方にいた仲間がカウンターに近づき、浅子の動揺を面白がった。
「そうだ、そうだ。謝れ、土下座して謝れ」
「土下座、土下座―――」
店内に、大きな声で土下座コールが響く。
異変を感じた店長の谷村が、バックヤードから不安げに顔を出す。店には、幸か不幸か、若い男たちの客以外に他の客の姿はなかった。
「あ、あの、何か・・・・・・」
対応を引き継ぐかたちになった谷村の体が、恐怖で震えていた。
「ジジイは引っ込んでろ!」
威圧されて言葉を失った谷村が、隣の浅子の方を見た。小声で事情を聴く。
「ちょっと説明してよ、藤原さん」
「未成年にお酒は売れないって言ったら急に怒り出して・・・・・・」
浅子の話しに、谷村は客の男達の顔をちらりと見た。
「免許証とか確認した?」
谷村も明らかに未成年だと分かっているはずだった。しかし、浅子はマニュアルの手順を確認されて狼狽える。
「いえ。でも―――」
「だめだよ。ちゃんと確認して判断しなきゃ」
「あの、でも・・・・・・」
客と店長から同時に責められるかたちになった浅子は、パニックに陥った。
「年齢の確認なんてなかったぜ。いきなり売らないって言いやがって、どういう事だよ。客を疑ってただで済むと思うなよ。ほら早く土下座して謝れよ!」
客の男達には、自分たちが未成年であるという事実は関係なかった。相手を威嚇する材料として、揚げ足取りをしているだけだった。客商売を営んできた谷村には、相手の魂胆が分っているのだが、根っからの臆病者だった。
「お客様、大変申し訳ございませんでした。年齢確認は店の義務でして」
「だから、その確認をしないで売らないっていうのはどういうことなんだよ」
「も、申し訳ありませんでした。さ、さあ、藤原さんも謝って」
従業員として守ってもらえるとばかり思っていた浅子は、店長にまで謝罪を要求され目に涙を浮かべた。
男達は薄ら笑いを浮かべて、「土下座しろ」と囃し立て騒いでいる。
浅子は恐怖と悔しさから、体が震え始めた。唇を強く結んで、土下座の姿勢をとるために前かがみになる。浅子が、すがるように谷村を見た。申し訳なさそうな表情の谷村は、浅子の視線を受けて顔を背けてしまった。
―――土下座して謝罪するのよ。それで終わるわ・・・・・・
浅子が屈辱的な決心をしたところで、客の男達の後方から、別の声が掛かった。
「待ちいな、あんちゃん達」
浅子と谷村、そして客の男達が一斉に声の方へ顔を向けた。
そこに立っていたのは、常連客のトラック運転手、矢萩田一平だった。トイレから出てきたばかりで、濡れた手をズボンで拭いていた。
「そう怒らんと」
「はぁん? 関係ねえジジイは黙ってろ!」
「関係ないけどな、だいたいの事は分かるわ。どうせ店員の態度に怒ってんやろ」
「このババアの態度がなってねえんだ」
パニック状態だった浅子は呆然となったものの、予期していなかった人物の登場に、少しだけ冷静さを取り戻す。
「そやろ、ここの店員はみな態度が悪いわ。トイレは掃除ができてへんし、俺も相当むかついとったところや。もうここでは買い物せんわ。店長はん、一番困るのはそういう事やろ」
同意を求められた谷村が、うんうん、と首を縦に振った。
「あんたらも、そうしたらええがな。謝罪なんて意味ないわ。それに土下座なんかさせたら捕まるで。ムショで一緒だった奴から聞いたことがあったわ。なんて言っとったかいの――― そうや強要罪や。ちんけな犯罪やで。あんちゃん達、まだ若いんやから冷静になって考えてみいや!」
言い終わりに語気が鋭くなった。いつものくたびれたような雰囲気は消えていた。矢萩田の眼球は底光りして、同種の人間にしか嗅ぎ分けることのできない、危険な香りが漂っていた。
客の男達は、警察に捕まるという話より、刑務所にいた事をちらつかせて、突然話に割って入ってきた矢萩田の存在に、底知れない恐怖を感じて動揺した。
「けっ! わ、わかったよ。もう二度とこんな店に来るもんか。早く潰れろ!」
若い男の客たちが、捨て台詞を吐いて店を出て行った。
「ネエちゃん、大丈夫だったか」
矢萩田の目から鋭さが消え、いつものうだつの上がらない雰囲気に戻っていた。
「ほれ」
購入する弁当を浅子に手渡した。
「あ、はい。お会計―――」
従業員を守れなかった気まずさから、谷村は早々とバックヤードに消えた。
冷静さを取り戻した浅子は、先ほどの出来事を思い返す。そして目の前の名前も知らない常連客が、機転を利かせ、男達の怒りを鎮めて自分を助けてくれたことを理解したのだった。
レジを済ませると、何事もなかったように矢萩田が店を出て行こうとした。その背中に浅子が思わず声を掛けた。
「あ、あの・・・・・・ ありがとうございました」
「ええよ、ええよ」
振り向いた矢萩田の視線が、浅子にはなんだか優しく見えた。しかし、実際には何も変わらず、矢萩田の視線はいつものように浅子の全身にいやらしく絡みついていたのだが。
窮地を救ってもらった浅子は、矢萩田を嫌悪する感覚が麻痺しつつあった。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
パート終わりの浅子は、レジでのトラブルについて谷村から注意を受け、接客マニュアルに目を通すように言われた。
「今日はすみませんでした。お先に失礼します」
店長に謝罪し、いつもより疲れて店を出た浅子の視線は、自然と矢萩田のトラックに向けられた。
―――今日もいない
座席の上部に据えられている四角い箱が、まさか運転手の休憩スペースになっているとは知らない浅子は、目を凝らして暫くトラックの座席付近を眺めていた。
そんな浅子の様子を、寝台の小窓から舐め回すように矢萩田が見ていた。
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