雨の少ない梅雨が明け、あっという間に8月―――。
木村が婚約者の珠希さんを伴い我が家を訪れてから間もなくして、俺たち夫婦宛の結婚式の招待状が届いていた。
日取りは9月の吉日。二人が話していたとおり、小さな教会で、限られた身内だけで、ということらしい。
暇な時に木村にLIMUでメッセージを送ってみる。しかし、返答は素っ気なく、仕事と結婚に向けた準備で忙しくしているみたいだった。
親友が女性恐怖症を克服し、美人な伴侶を得て新たな生活に踏み出す。本当に喜ばしい限りだ。まあ女性恐怖症の克服の仕方は”大きな問題”ありだったのだが。
その後の二人の様子に別段変わったところはなく、俺自身も荒療治だったと割り切ることで、妻と親友の隠れて行われていたセックスを事実として受け止め、あれは事故みたいなものだった、と自分の中で納得していた。
木村が胸襟を開いて、男として言い難い悩みを打ち明けた夜のことを思い返す。
あの夜の真剣な表情を思うと、木村の長年抱えてきた悩みを解決できたことを親友として心から嬉しく思うし、協力を惜しまなかったゆり子にも感謝の気持ちが大きい。
「珠希さん、お店を辞めれないみたいよ。後任が見つかればいいけど、オーナーさんにお願いされたんだって。とりあえずは、結婚ぎりぎりまでは続けるそうよ」
ソファーの上でスマホの画面を見ていたゆり子が言った。
初対面の時、ゆり子と珠希さんは電話番号を交換していた。当然のようにLIMUでも繋がっていて、俺の知らない所でやり取りをしているみたいだった。
「大変だな。早く次の人が見つかればいいな」
「そうね。オーナーさんは、結婚を舐めてるわ。女の準備は大変なんだから。そういえばオーナーさんも結婚式に呼ばれてるのかな? 会ったら嫌みの一つでも言ってやろ」
視線はスマホで、喋る言葉はぶつぶつと独り言のようなゆり子。俺の話は聞いていないだろうけど、明日の予定を一応は伝えておく。
「明日は接待があるから晩飯いらないよ」
「うん、分かった。それでご飯は?」
「・・・・・・抜きでお願いします」
溜息をついた俺は、明日に備えて早めに就寝した。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
夕方―――。
事務処理を終えた俺は、上司と一緒に少し早めに退社した。退社といっても、仕事が終わる訳ではない。得意先の接待という残業手当のつかない、潜在的であって非常に重要な仕事が残っていた。
景気のよい時代には、接待費用の上限がなかったそうだが、少なくとも俺が入社してからは、経理から費用の全額を認められた記憶がない。
駅近くの繁華街の外れにある小洒落た料理屋ですし懐石のコースを振る舞い、次の店に行くことになった。通常なら会社がよく利用する女の子がいる店があるのだが、今夜は先方が店を指定してきた。
「色っぽいママがいるのよ。胸もデカくて、ちょう色っぽいのなんのって」
鼻の下を伸ばした先方に誘われて入った店は、5-6坪の広さのこぢんまりとしたスナックだった。
「いらっしゃいませ」
整った顔立ちの綺麗ないママが、カウンターの中から出てきて、やや深めに頭を下げて丁寧に出迎えてくれた。
顔を上げたママの視線と、俺の視線が交差した。俺の口から、「あっ―――!?」という小さな驚きの声が自然と漏れた。
しかしママの方は顔色一つ変えず視線を先方や俺の上司に移し、何事もないような自然な動作で俺たちを店内へ誘った。
目の前のママ会ったのは、我が家での一度きり。俺の顔を覚えていない可能性もあったのだが、移動して戻って来た悪戯っぽい視線を受けて、直感的に理解した。
―――俺に気が付いている
フィアンセの親友を認めても素知らぬ態度のママ。その真意を汲むと、流石というところか。オーナーが手放したくない理由が分かった気がした。
接待で訪れた先のスナックのママ、そう、木村の婚約者である珠希さんは、スーツ姿で仕事モードの俺を見て瞬時に事情を汲んだのだ。
知り合いだと分かったところで、別段問題がある訳ではないのだが、そこは雇われであってもその道のプロ。俺の状況を見て取り、先の判断を俺に委ねたのだ。
俺は珠希さんに甘え、初対面を装った。
装う大きな理由―――、それは仕事上の関係の人間に、俺たちのプライベートについて触れられたくなかったからである。
知り合いだという経緯を話せば、当然に俺や珠希さんのプライベートの話になる。接待している状況で、どこのどいつが、大切にしているものの話をしたいものか。色々と面倒なので、俺は珠希さんに終始甘えた。
店は、急にアルバイトの女の子が休んだということで、他の客の姿もなく珠希さんしかいなかった。しかし、目当てのママを独り占めにできた先方は上機嫌で、接待ということを考えれば珠希さんのおかげで大きな成果を期待できた。
先方の纏わりつくようなネチネチした視線や、セクハラまがいの言動を珠希さんは嫌みなく綺麗にかわして接客をこなす。
その仕事ぶりを横目で観察しいて、正直なところ木村には勿体ないような女性に思えたりもする。そう、単純に嫉妬だ。
―――本当にキムは・・・・・・ 良い人と出会えたんだな
魅力的な女性を前にした男としての嫉妬心と、親友としての喜ばしい気持ちとが混ざり合い、接待中はなかなか酔うことができなかった。
「ありがとうございました。また来て下さいね」
店の外に出て、珠希さんが見送りの言葉を掛けてくれた。先方の上機嫌は続いていて、「またね~珠希ちゃん」と大きな声で応えて手を振っている。そのまま千鳥足で駅舎方向へ消えていった。
その後を、上司と共に慌てて走って追いかけた。走りはじめて、ちらりと後ろを振り返る。すると、右目を閉じてウインクする珠希さんの姿がそこにあった。走っていることと、それ以外のことで心臓がドキドキしていた。
「ここでいい。方面が一緒だから、後は俺に任せろ」
駅舎が見えたところで、上司から業務の終了を告げられた。
「お疲れ様でした」
「ああ、気をつけて帰れよ。あっ、待ってください―――」
先方に追いついた上司が肩を貸し、駅舎の中に一緒に消えていった。
俺は時計に目をやりつつ、タクシー乗り場を目指して一人歩きだした。心臓がやたらと高鳴る。勿論、酔いからくるものでも、走ったからでもないことは自分自身が一番理解していた。
タクシー乗り場に着くと、空車待ちの列があった。しかしここは大都会ではない。大行列という訳ではなく、おそらく5分も待てばタクシーに乗車できるはずなのだ。
俺は、ただただ言い訳が欲しかった。言い訳がないと、親友や妻に対して、なんだか後ろめたい気持ちを抱えてしまう―――。
「ちぇっ、待ってられねえよ――― 仕方ねえぇな」
俺はわざとらしく毒づいて、踵を返した。
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