週末の夜―――。
ゆり子の提案で木村を我が家に誘った。
中古の一軒家で、けして広くはないが、車を2台駐車しても家庭菜園ができるだけの庭があり、家族3人には十分すぎる環境だった。
妻の提案を事前に電話で伝えたところ、「ゆり子ちゃんに話したのか」と憤慨した様子だったが、いざ玄関先に現れた木村は緊張して出迎えた妻の顔を見ることが出来ないでいた。
「こんばんは」
俯き加減の木村の声は、いつもの明るい調子が嘘のように、か細くて弱々しかった。
「おう、上がれよ」
「いらっしゃい」
正直なところ、俺自身も木村と同等かそれ以上の緊張状態にあった。しかし平然としている妻の横では、夫としての威厳を保つためにも努めて平静を装っていた。
ダイニングテーブルに座った俺と木村は、どうでもいい話をして、本題には触れなかった。
時折、向かい合って座る木村の視線が、キッチンに立つゆり子の背中に向けられていて、相当に妻を意識していることが窺えた。
ゆり子はキッチンからなかなか出てこなかった。もしかしたら、平然として見える妻も、やはり内心では迷っているのかもしれないと俺は考えた。
木村との会話は続かず、重たい沈黙の中で、俺はゆり子の提案を思い返していた。
「風俗は絶対に駄目。それで、考えたんだけど・・・・・・ 私じゃあ駄目かな」
ゆり子の顔は真っ赤だった。俺の驚いた顔を見て、慌てて話を続けた。
「バカじゃない――― 今変なことを想像したでしょ。勝手に誤解しないでよね。女性恐怖症を克服するってことは、女性に慣れるってことだと思うの。あなたが言うように風俗に行ったとしても、結局は従業員とお客さんとの関係で終わりよ。だから本当の意味で女性に慣れる必要があると思ったのよ。それでね、キム兄のお見合いが成功するように、私が相手になってもいいと思って」
激しい動悸に心臓が暴走したように感じた。血液が沸騰して視界が狭まる感覚があった。
「ゆ、ゆり子が相手!?」
「なに興奮してるのよ」
ゆり子には、俺の動揺する様が、興奮したように見えたようだった。
「なんで興奮するんだよ」
「目が真っ赤。顔も茹蛸みたい。だからさ、変な誤解はしないで。私はあなたの奥さんよ。夫の親友と・・・・・ あんたが考えてるような事をするわけがないじゃない」
いつになく真剣なゆり子に睨まれた俺は、「分かってる」と短く言って、真剣な眼差しを向けて話の続きを促した。
「女性恐怖症って昔から?」
「いや、中学の時は・・・・・・ そういう感じではなかったような・・・・・・」
昔を思い返しながら、慎重に答えた。
「じゃあ、高校は?」
「最初に彼女を作ったのは、キムだった。そうか―――」
「思い出してきたみたいね」
「そうだ。確か最初の彼女ができて、その彼女と別れてから・・・・・・ あいつの様子が少し変わったっていうのか、曖昧だけどその辺から女を避けるようになった気がする」
俺の話を引き出すゆり子の顔は真剣で、優秀なカウンセラーに見えてきた。暫く考えを巡らしていたゆり子が手を叩いた。
「やっぱりね。キム兄はトラウマを抱えてるのよ。過去に付き合った女性との間に何かあったのね。それで女性恐怖症になった。だから、キム兄からトラウマの原因を聞き出して、女性に慣れるよに対処する」
自信満々といった感じで、ゆり子は何度も1人で頷いた。
「そんなに簡単にいくかな?」
「なによ、あんたの親友のために真剣に考えてるのに」
「あ、ありがとうな。よく考えたら、俺もゆり子の考えに賛成だ」
ゆり子の機嫌を損ねないよう、俺はいつものように同調という緊急回避を行った。
しかし安易な回避行動は、目先の危難をやり過ごすことができたとしても、舵を切ったことで将来の大きな危難に直面することがあるのだが。
「トラウマの正体が分かったとして、具体的にどうするんだ?」
真剣な妻の眼差しに、俺自身も解決の糸口が見えてきたような気がしてきた。
ただ、トラウマを取り除く過程で、妻がキムの相手をするという部分に不安が残る俺は、少し冷静になって突っ込んだ質問をした。
「例えば、彼女に息が臭いとか、足が臭いとか、生理的な部分で否定されたとするじゃな。思春期の男の子にはトラウマにならない?そういう事が原因なら女性の私が実際に確かめてみて、否定してあげるの」
「ははは。ゆり子が匂いフェチだったなんて知らなかったよ」
俺はキムの口臭を嗅ぐゆり子を想像して、思わず笑ってしまった。
「真面目に聞いて」
ゆり子の表情が瞬時に険しくなった。
「わるい――― その、もしそうだったら。本当に臭かったらどうするんだよ。臭いって肯定してやるのか」
―――素朴な疑問だった。
「―――バカじゃないの! もし臭くても否定するわ。だって治療だもの」
俺は女性の、というか妻の神経の図太さを見た。そして、即席カウンセラーとして頼ってみてもいいと感じてしまったのだった。
椅子を引く音で我に返った。
キッチンから出てきた妻が、俺の横に座ったのだ。目の前には、コーヒーが注がれたマグカップが置かれていた。
猫舌のキムは、普段なら淹れ立てのコーヒーには口をつけない。しかし、目の前の親友は緊張でおかしくなっているのか、音を立ててコーヒー啜っていた。
「あなた。ねえ、あなた。大丈夫?」
「お、おう。ちょっと考え事してた」
いつもの夜なら、キムが客から仕入れたホットなローカルネタを披露する場面だが、3人が揃って、さらに微妙な沈黙が訪れていた。暫くしてキムが悲鳴を上げた。
「アチチっ!!」
「猫野郎」
「キム兄、大丈夫?」
火傷は免れたが、キムの慌てた様子が笑いを誘った。俺とゆり子の口から自然と笑いがこぼれ、極度の緊張状態にあったキムも、口の中の熱さで冷静さを取り戻したようだった。
場の雰囲気が若干緩んだところで、隣のゆり子が大きく深呼吸した。
「時間が惜しいから、前置きはなしね。あなた、キム兄もいい?」
即席カウンセラーが産声を上げた。
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