木村と珠希さんの結婚式を一週間後に控えた9月の週末―――。
今夜は、独身最後の木村を我が家に呼んで一緒に飲み明かそうという話だった。しかし、妻のゆり子が連絡を取り、婚約者の珠希さんも急遽参加することになったのだ。
俺としては大歓迎である。
実は接待で珠希さんの店を訪れて以降、「また来て」と言われていたのに一度も顔を出せていない。
親友の婚約者がママをしている店に、気軽に出入りするのも憚られたし、聞いてはいけない話を耳にした手前、自然と足が遠のいていた。
俺が珠希さんの店を接待に利用した話は、敢えてゆり子と木村には話していない。
あの夜の珠希さんと、店のオーナーのやり取りについては、二人だけの秘密ということになっていて、『指切り』をしたことが、どこかやましい気持ちに繋がっていた。
「いらっしゃい」
約束の夕刻―――。
呼び鈴が鳴り玄関へ出ると、木村と珠希さんが並んで立っていた。
木村は日本酒の瓶を片手に持って、「よっ!」と一声。
隣の珠希さんは、残暑が厳しい季節にも、秋らしく白いシャツに薄手のカーディガンを羽織っている。膝下丈のフレアスカートが年下の木村の横に立っていても、年齢の差を感じさせなかった。
「お招きいただき、ありがとうございます」
丁重に頭を下げた珠希さんの姿が、接待の夜にスナックの外で見送ってくれた姿と重なって見えた。
「もう珠希さんったら――― ちょっと他人行儀すぎない?」
「ごめんなさい。だってお二人に実際に会うのは今日で2度目だから」
ゆり子と珠希さんが通信アプリのLIMUでやり取りしているのは知っている。ゆり子の言動からして、二人はSNSを通じて相当仲良くなっているのだろう。
その事よりも珠希さんの口にした言葉が引っ掛かった。はっきりと、「会うのは今日で2度目」と言った。ようするに珠希さんの方も、木村やゆり子に対して俺が店を訪れた事を言っていなということなのだ。
隣のゆり子に悟られないように、俺は自然な感じで珠希さんの顔を見た。口許に小さな笑みを浮かべている。俺の視線を受けて、小指を立てた手を一瞬だけ顔の前に掲げてみせた。
「うっ、ごほっっっ、ごぉほっっっ――― さ、さあ、上がった、上がった」
「ちょっと、あんた大丈夫」
大いに咽た俺の背中を、力強くゆり子が何度か叩いた。その様子に、顔を見合わせた木村と珠希さんが、緊張がほぐれたように笑った。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
久しぶりの宅飲みだ。それも俺たち夫婦と木村のいつもの三人ではない。今夜は珠希さんを含めた四人だ。俺のテンションは自然と上がっていた。
「何だか嬉しそうね」
「そ、そりゃそうだろ~、あのキムが結婚だぜ。そりゃー嬉しいよ」
ゆり子に内心を見透かされて、俺は慌てて取り繕う。心から嬉しいのは本当の気持ちなのだ。しかし親友の婚約者に対して、変に意識しているところは反省するしかない。
ダイニングテーブル上には、持ち帰りの寿司とゆり子の手料理が並んでいる。皆で囲って、さっそくビールで乾杯した。
女連中は互いを下の名前で呼び合い、すぐに会話を弾ませた。俺は結婚式の段取りなどについて木村の話を聞いた。
嬉しそうに話す木村―――。
俺は聞き役に徹して正面に座る木村を観察した。
一度はゆり子と情を通じている。木村の態度やゆり子に向かう視線におかしな所は見受けられない。単刀直入に言えば、下衆の勘繰りだ。
さすがに婚約者の前ではあるし、それにあの夜の出来事は過去のものと割りきっていることを、親友として信じたい。
ゆり子の方も一緒に暮らしていて、別段おかしな所はなく、そうなれば俺一人がうじうじと悩んでいることになるのだ。
「珠希さんはお酒強いんですか」
「・・・・・・仕事柄かな。強そうに見られるけど、実は弱いんです。ゆり子さんは?」
「うーん結構いけるかも」
「結構いけるかも? ザルだよ、ザル」
木村の話の途中から考え事に浸っていた俺は、女連中の会話がふと耳に届いて本音が口を衝いて出てしまう。
「ザルなんかじゃないよ」
「・・・・・・確かに、ザルだ」
反論するゆり子に、木村が首を横に振って言った。
「みんな酷い!」
大きな声で言ったゆり子が、手元のビールを一気に飲み干した。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
2時間後―――。
リビングに場所を移して、結婚の前祝は続いていた。
「海原さんとは、そんな頃から―――」
「腐れ縁ってやつですよ。本当に宜しくお願いします上月さん」
あの夜の珠希さんはフランクに話し、「珠希と呼んで」と言ってくれた。今夜の珠希さんは敬語を使い、当たり前のことだが、どこまでも親友の婚約者であり、一定の距離を感じて残念に思った。
隣ではソファーに座るゆり子が、目の前の床上に胡座をかいている木村と話をしている。
「色々と協力してもらって、本当に感謝してるよ」
「協力した甲斐があったわ。努力したもの私」
どこか意味深なゆり子の言い方に、木村もまんざらではない表情なのは気のせいか。それを珠希さんが首を傾げて不思議そうに見ていた。
妙な雰囲気のゆり子と木村、そして苦い顔の俺―――。
木村の場合は、悪意がないだけに厄介なところがある。しかし、ゆり子の方は酔いのせいもあるのだろう、明らかに性的なものを言葉の裏に忍ばせているのが分かった。
オットマンに座る俺は、珠希さんと当たり障りのない会話をしていたのだが、酒の影響でついつい口が滑ってしまった。
「それで、珠希さん―――」
今まで苗字で呼んでいたのに、下の名前で呼び掛けてしまう。すると目ざといゆり子の顔がこちらを向いた。
「あんた、酔っ払ってんの? 急に馴れ馴れしく呼んだわね」
実際には、たいした事ではない。しらふなら簡単に誤魔化せる。しかしスナックでの出来事が頭の中を過ぎり、俺は慌ててしまった。
あたふたする俺を見かねて、「はははっ。俺だって、『ゆり子ちゃん』って呼ぶよ」と笑いながら木村が助け舟を出してくれた。
「じゃ、じゃあ俺も、『珠希ちゃん』って呼ぼうかな―――」
木村の助け舟にしがみつきながら、恐る恐る言ってみた。すぐにゆり子に睨まれる。
「―――私はいいですよ。ゆり子さんがよければ・・・・・・」
「だめです! 珠希さんは年上だし、それに親しき中にも礼儀ありですよ。うちのを甘やかすと、すぐに調子に乗るんだから」
「結婚すれば、『キムの奥さん』って呼ぶのかよ。いいだろ『珠希ちゃん』で」
「それなら『珠希さん』でしょ」
みな酔っていることもあり、呼び方論争はなかなか終わらなかった。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
―――楽しい時間は過ぎるのが早い。
木村が持ってきた日本酒をチビチビやりながら風呂の順番を待つ。今夜は「泊まっていって」と珍しくゆり子が言い出した。
遠慮する珠希さんを説得して、とりあえずは皆が風呂を済ませる事になったのだ。掃除を兼ねて先に風呂に入ったゆり子が、木村の前で遠慮なくパジャマ姿を晒して風呂上がりの一杯を楽しんでいる。一度体を許した男には警戒心が緩くなるものなのか・・・・・・。
「あんた、キム兄の着替えと自分のを用意してよ」
命令口調のゆり子が言った。珠希さんは入浴中だ。俺が今リビングを離れれば、短い時間だがゆり子と木村は二人きりになる。
まさか婚約者を連れた木村が、ゆり子に対してよからぬ行動に出るとは思っていないが、男という生き物は信用ならない。ましてや一度は情を通じているのだから。
廊下に出ると、脱衣場の奥からシャワーの音が聞こえた。思わず浴室の珠希さんの体を想像する。
―――キムの野郎、あの巨乳を自由に・・・・・・。
妄想が進み、股間がズキンと疼いた。
二階の寝室で着替えを準備し、階段を降りる。脱衣場の奥からは、まだシャワーの音が聞こえていた。
俺は既視感を覚えながら、リビングの入り口へと近づいた。
テレビの音が聞こえてくるだけで、話し声は聞こえない。急に不安な気持ちが広がった。
汗ばむ手を扉に掛けると、「何してるのよ」と背中に声が掛けられた。
「ゆ、ゆり子! びっくりさせるなよ」
「なに言ってるのよ。トイレから出たら―――、扉の前で聞き耳立てちゃって」
情けない行動を見られたことで、羞恥心が広がり俺は返す言葉を失った。
しょげた俺の様子に、ため息をついたゆり子が続けた。
「気にしてるの? あれはキム兄の女性恐怖症を克服するためにやったことよ。あの時が最後だから―――そんなに心配しなくていいよ。素敵な婚約者がいるんだから、もう忘れよう」
どうやら、ゆり子の方が一枚上手のようだった。ゆり子の言葉で、俺の中のモヤモヤした気持ちが晴れてゆくような気がした。
風呂上がりの珠希さんは、とても直視できない妖しい魅力を放っていた。パジャマ代わりに貸したゆり子のジャージーを着ている。
ファスナーが上まで閉まらない胸元は、はち切れんばかりに膨らんでいた。中に着ているTシャツは首回りが少し広いタイプで、閉まらないジャージの胸元から危険な谷間が覗いていた。
絶対にゆり子はオレの視線を追っている、という確信があった。だから、敢えて新聞を手にして珠希さんから離れたダイニングテーブルの椅子に座った。
暫く俺の様子を観察していたゆり子が、「よし」と言って頷く。お客さん用の布団を準備するためにリビングを後にした。
そして、「お先~」と言って木村も脱衣場に消える。
リビングダイニングで珠希さんと二人きりになった。すると珠希さんが俺の座るダイニングテーブルの正面の席に座った。自然と珠希さんの胸元に視線が吸い寄せられた。
「ふふふぅ――― なんで来てくれなかったの? 待ってたのに」
妖艶に微笑んだ珠希さんは敬語を止めていた。
「・・・・・・すみません。なかなか時間が作れなくて」
「少し相談したい事もあったのに」
相談という言葉に、オーナーだという男のふてぶてしい顔が脳裏に浮かんだ。
「相談ならいつでも聞きますよ」
「優しいのね、信太さん」
下の名前で呼ばれた。心臓が早鐘を打つ。
「そ、そんなの当たり前ですよ。俺の親友の奥さんになる人ですから」
「あら、頼もしい。でも親友の奥さんになる人の胸元ばかり見ちゃダメよ」
「―――ぐっっっふっ!」
大きく咽た俺を見て、口許に手をやった珠希さんはケラケラと可笑しそうに笑った。
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擬似、請負い妻 第22話 ?