小さな町を取り囲んだ山の緑が日増しに色濃くなってゆく。日中の日差しは柔らかく、過ごしやすい季節だった。 短いが、とても気持ちの良い季節、にもかかわらず、我が家では花粉と黄砂の影響から、一階と二階の全ての窓を閉めていた。梅雨入り前の蒸し暑さと、高揚感からくるものなのか、体の芯に火照った感があった。 夏に向けて掃除を終えていたエアコンのスイッチを、躊躇なく入れた。 この時期のエアコン稼働については、家計を賄うゆり子なら必ず反対するはずなのだが、妻も俺と同様の感覚なのか、文句を言うことはなかった。 「始めましょ」 ゆり子の声はヤル気を反映して、艶と張りがあった。 「おう」 緊張を表に出さないように注意して、俺は言葉少なく頷いた。 「お願いします。あれ?」 木村は俺たち二人にというより、妻の方に頭を下げてから、首を捻った。 察しの良い妻は、「早めに寝かせたから、あんまり騒がないでね」と子供がいない状況を説明した。ダイニングのテーブから、リビングのソファーに移動した。テレビは消している。 俺と木村がソファーに座り、ゆり子は木村の前のオットマンに腰かけた。勿論、アルコールは準備済みだった。軽めの乾杯から、ゆり子のカウンセリングが始まった。 「言い難いことだとは思うけど、正直に答えてね。キム兄は夫の幼馴染で親友。腐れ縁を通り越して、二人は兄弟みたいでしょ。だから私にとってもキム兄は家族みたいな存在なの。お見合いが成功するように是非協力させて」 妻の言葉は、木村の為とは言いつつ、裏を返せば夫の為という事である。俺はゆり子の愛を感じ、心の中で感謝した。 「ありがとう。ゆり子ちゃん、信太も真剣に考えてくれて・・・・・・ お願いするよ。女性恐怖症を克服させて下さい」 目頭を押さえて木村が深く頭を下げた。アルコールの影響にはまだ早い。木村は俺たちの本気に触れたのだった。頭を深く下げたのは、涙を隠すためだと、俺には分かった。 妻の質問は即席カウンセラーにしては細部にわたり、子供の頃から遡って行われた。問題の高校時代の質問にに辿り着くまでに、俺はビールを三缶空けた。 「初めての彼女とは、その、どこまで?」 平静を装っていたが、まばたきの多さから質問した側のゆり子の動揺が窺えた。木村の方も、アルコールの影響とは思えないほど顔が赤い。 「なにも・・・・・・」 「なにもって、どこまでしたの?」 聞き上手のゆり子に任せて、俺は二人のやり取りには入らず傍観していた。妻の口から、際どい質問が飛び出すたびに、体の芯が熱く痺れるような感覚があった。 「だから、なにもしてない」 「何もしてないのは分かったわ。でも、なにもしてないのか、なにかしようとしてできなかったのでは、大きな違いがあるわ」 傍観者の俺は、木村の苦しそうな表情から、妻が核心に迫ったことを感じた。 「そ、そりゃあ、健康な男だからな。しようとしたさ。でも、汗の臭いがするって・・・ 映画を一緒に観た帰りだったよ。キスしようと抱き寄せたら汗臭いって―――」 「酷い・・・・・・」 「そりゃないぜ。あの頃、俺に相談したか?」 「あんたは黙ってて」 ゆり子の厳しい一言で、俺は傍観者に戻った。 「たぶん、その子はなんとなくキム兄と付き合った感じだったのよ。女の私には良く分かる。そういう年頃だったのね。その子は、初めからキム兄とそういう関係までは考えてなかったんだわ。その子の方も経験不足で、断り方が分からなかったのが正解ね。キム兄の女性恐怖症は、そういう苦い経験が原因になっていると思うの」 「そうかな? 当時は相当へこんだよ。ただ、原因と言われると・・・・・・ 俺は立ち直ったと思ってるけど」 木村は苦い顔のままでゆり子に反論した。 「本当に立ち直ってる? 自分の事って分かっているつもりで、意外と見えてないもんじゃないかな。たぶん苦い経験は深層心理に深く刻まれていて、未だに克服できてないんじゃないの」 木村はゆり子の指摘にピンと来ていないようだった。 それはそうだろう。男女問わず、誰でも交際を断られた経験や、容姿などの中傷を少なからず受けた経験があるはずだ。 それが、木村だけトラウマを抱えるっていうのには合点がいかない。過去を振り返れば、それこそ俺は人格が崩壊している。 「だれにだって苦い経験があるわ。私にも、夫にも、誰にもね。ただ、キム兄の場合はタイミングが悪かったような気がするの。最初の彼女を抱き寄せてキスする場面で、汗臭いって――― 間違いなくトラウマになるわよ。キム兄って、普段から香水つけてるよね。初めて会った時からお洒落な人だと思ってたけど、今回の話を聞いて視点を変えてみたの。そうしたら、体臭に関する悩みが見えてきたわ」 妻の観察眼に、別の意味で冷たい汗をかいた。過去の俺の悪事が、全て知られているのではないのかと。 木村の顔から険しさが消えたようだった。 「すごいな、ゆり子ちゃん。そうだよ、香水はお洒落でつけてるんじゃない。体臭隠しさ。まあ、本来の用途だけど」 自嘲気味に笑った木村の話に、ゆり子が力強い張りのある声で続いた。 「大丈夫よ、キム兄。確かめてあげる。本当に汗臭いか、もともとの体臭がどうなのか、女の私が判断してあげる」 「えっ!? ゆ、ゆり子ちゃん・・・・・・」 ポカンと口を開けたままの木村が、隣の俺に視線を向けた。目で「いいのか?」と訴えているようだった。 俺は親友の相談を引き受けた以上、また、ゆり子の夫として、男らしく頷いてみせるしかなかった。 しかし、実際に自分の妻が、夫以外の男の体臭を確かめるという、非現実な状況を思うと心中穏やかではなかった。 木村が香水の匂いを消すためにシャワーを浴びている間、俺はゆり子に段取りを聞いた。 「どうするって、何が? 実際に嗅ぐだけよ」 ゆり子は俺の動揺を知ってか知らずか、あっけらかんとして答えた。俺は土壇場になって、自分の妻に大変な事をさせているような罪悪感に見舞われた。 「お、俺が嗅ぐよ」 「男が嗅いでも意味ないし。女の私が確かめることに意味があるの」 「そ、そうか、そうだよな・・・・・・ お見合いが成功するために頼むよ」 積極性を見せる妻に若干の違和感を感じつつ、結局は頭を下げることしかできなかった。 木村を待つ間、横目でゆり子を観察した。一見して落ち着いて見える妻の、飲酒のペースがいつもより速い事に気が付いた。俺と同様に妙な高揚を感じているのだろうか。 リビングでの会話は少なく、子供も起きない。 一時、静かな時間が流れ、俺は親友の為に腹をくくった。
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