―――木村夫婦と話し合った翌週の水曜日。
相変わらずスマホの画面を眺めながら仕事をしていた。
吾妻からの電話はない。
それでもなかなか仕事には身が入らず・・・・・・珠希さんの抱える深刻な問題やその珠希さんの体を性欲に負けて弄んでしまったことなどが頭の中を巡り、自然と溜息ばかりをついていた。
「―――大丈夫ですか?」
突然掛けられた言葉に、ふと我に返る。と、隣の席の同僚が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「―――ちょ、ちょっと考え事があって」
「課長やみんなも心配してましたよ。最近の海原さんはどこか変だって。悩み事があるんなら吐き出した方がいいですよ。私でよければ聞きますから。あっ、その時は旦那の愚痴を聞いてもらうことになりますけどね~」
体を必要以上に寄せ俺の耳元に顔を近づけて話す同僚の人妻。甘ったるい香水の匂いが鼻孔をくすぐった。
「・・・・・・その時は、頼もう、かな」
モテキなのだろうか、と一瞬考えてしまった。―――いや、違うな。これはどう考えても女難の相・・・・・・。
同僚の人妻を前に苦笑いを浮かべていると軽い咳払いが聞こえた。
慌ててその方向に目をやる。
するとこちらに顔を向けていた課長と目が合った。すぐに表情を消した俺は、軽く頭を下げてから目の前のモニターに視線を戻したのだった。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
退社時刻になり同僚たちの中で一番最初に鞄を持って立ち上がると、タイミングを見計らっていた課長に声を掛けられた。
「ちょっと付き合え」
「・・・・・・はい」
部下の体調管理や精神衛生上の障害を取り除くのは、上司としての業務管理の一環なのだろう。
課長に連れられた俺は駅前の焼鳥屋で予定外の残業となってしまった。
とは言っても、課長は良い人で、けして無理強いをすることもなく親身になって話を聞こうとしてくれたのだが・・・・・・何一つ本当のことなんて話せるはずもなく・・・・・・。
どうやら職場での俺は、周りから相当に心配されていたようだ。明日からは雑念を捨てて仕事に集中しなければならない。
ゆり子には遅くなるとメッセージを送っていたのだが、残業からは1時間ほどで解放されてしまった。
中途半端に1人夜の街へ放り出されてしまい、なんだか飲み足りない気分だった。残業していた同僚たちはそろそろ帰宅するのではないだろうか。ああ~誰か適当に付き合ってくれないか。
そんな事を考えていると、ふと親友の奥さん―――珠希さんの顔が思い浮かんでしまい駅へ向かっていた足が自然と止まってしまった。
珠希さんのスナックに1人で飲みに行くということは・・・・・・あの過ちの夜の記憶が蘇る。それにあの店のオーナーとは二度と会いたくない―――。
ただ飲み足りないというだけのことなら、どう考えても悪手だった。それなのに気が付けば珠希さんが雇われママとして働くスナックの前に立っていた。
店のネオンサインが、「帰れ」と俺に警告しているように見えた。それは木村やゆり子の手前、気が引けているからだろう。
吾妻と鉢合わせる可能性を考えると、やはりおとなしく帰ったほうがよさそうだ。
踵を返した俺の背中に、最近になって聞きなれた少し低めの色っぽいハスキーな声が掛けられた。
「―――っあ、もしかして海原さん?」
声のした方へ振り返ると、珠希さんが客の見送りのために表へ出てきていた。
淡いピンクのタイトなワンピース姿で、客を歓ばせるために胸元が煽情的に大きく開かれていた。
丁寧に客を見送ってから嬉しそうに傍に駆け寄ってきた。
「あ~~~やっぱり海原さんだぁ」
「こ、こんばんわ。今夜は上司に誘われて――― それで今ちょうど帰りで―――」
客の姿が遠ざかると、目の前に立った珠希さんは言葉の調子を変えた。
酒の影響なのか、どこか甘えたような口調になっていた。それに対して俺は、どこか言い訳じみた言葉を並べていて・・・・・・。
しどろもどろの俺の様子に珠希さんはぷっくりとした唇に蠱惑的な笑みを浮かべたのだった。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
珠希さんに誘われて入った店内には、俺の他に客はいなかった。それにオーナーの吾妻の姿も。
カンター席の中央の椅子に座ると、目の前には美人のママ。店は完全な貸し切り状態となった。
「ブランデーでいい?」
そう言った珠希さんは、背面の棚から新しいブランデーボトルを取り出した。
「ちょ、待ってください。ビールでいいですから」
「これは私からのサービス。信太さんには色々とお世話になってるから」
「で、でも・・・・・・」
「迷惑?」
木村やゆり子の前では見せない男に媚びるような表情。結婚したばかりの珠希さんに下の名前で呼ばれるとなんだか背徳感を覚えてしまう。
「そ、そんなことは、ないですけど――― じゃあ、ありがたく頂戴します」
「ふふ、なんだか仕事みたいな言い方ね」
「あっ、すみません。なんだか緊張しちゃってて」
「あはは――― ちょっと信太さん面白い」
自然な感じで俺を下の名前で呼ぶ珠希さんは、可笑しそうに声を上げた。普段は淑やかでいて艶っぽい雰囲気なのに、今夜は少しだけ幼く見えてしまう。
そんな珠希さんを目の前にしていると、不意に汗にまみれた艶めかしい裸体が脳裏に浮かんだ。
そして自然とカウンターの奥―――黒いカーテンで仕切られているその先へ視線が向いていた。
「どうしたの?」
「―――い、いや、あー何でもないです」
俺が珠希さんとセックスしたことは本人の様子からバレてないと思う。ただ吾妻の口から、いつかは珠希さんに伝わるような予感があった。
いったい珠希さんと吾妻の関係はどういったものなのだろうか・・・・・・考えると憂鬱な気分になった。
「オーナーはいないわ。気が向いた時だけ顔を出すの。基本は私に任せてるから」
過ちの夜の出来事を思い返していた俺に、察したように珠希さんが言った。それは半分だけ正解で―――吾妻に会いたくないと思っていることだけは当たっていた。
「そうですか、いないんですね」
「会いたくないでしょ、当然よね。それより、あの時はありがとう」
「いえ、なんだか勝手なことをしちゃったみたいで」
「ううん。助けに入ってきてくれて嬉しかったのよ」
俺を見つめる珠希さんの瞳が少しだけ潤んで見えるのは気のせいだろうか。2人だけの今なら、珠希さんが抱えている問題について本人の口から話が聞けるかもしれないと思った。
「・・・・・・あの、困っているなら相談してください。木村に言いにくい事でも―――」
言葉を選びながらたどたどしく話し掛けた。すると珠希さんは俺の申し出に対して真剣な表情を作った。
「―――みんな色々あるし、俺にもゆり子に言えない事があるっていうか・・・・・・夫婦だからこそ言えないことがあると思うんですよ。だから木村には言えないことでも相談してくれたら力になります」
少し顔がほてっていた。
頭の中に浮かんだ考えを慎重に言葉に乗せる。言い終わると、俺の顔を真剣な表情で見つめていた珠希さんが小さく笑った。
「信太さんって優しいのね。少しだけゆり子さんに嫉妬しちゃうかも」
「あ、当たり前ですよ。俺の親友の、大切な奥さんなんですから」
「私はそういう意味で言ったんじゃないんだけどな」
口を尖らせる珠希さんのどこか妖しい瞳に見つめられ、いたたまれなくなって視線を逸らした俺はグラスの酒を一気に飲み干した。
「そうだぁ、相談って言うか――― 1つお願いがあるの」
「な、なんでも言ってください」
蠱惑的な笑みを浮かべる珠希さんが、ゆっくりと口を開く。
「私はこの店のママで、信太さんはお客さん。2人だけの時は、お互いに敬語はやめましょ」
「わ、分かりました。って、うーん、分かったよ、珠希さん」
酒の勢いもあってか、すんなりと珠希さんの提案を受け入れてしまった。
親友の奥さんなのに、距離感が分からなくなる。
言葉遣いに関しては、今後ゆり子たちの前では注意しなければならないな。
珠希さんの提案は、純粋に客に対してのリップサービスだとは思うのだが・・・・・・その後の会話はスムーズでどこかくだけた雰囲気になった。
相変わらず俺以外の客はなく、吾妻も姿を現さない。
次第に珠希ママとの会話は、先日俺が提案した木村の女性恐怖症克服の方策についての話になっていった。
「で、よく新婚夫婦にあんな提案ができたわねー」
「ごめんなさい・・・・・・」
俺とゆり子、木村の3人での療治―――セックスごっこを行った事実を踏まえて考えればギリギリ許容される提案だったのかもしれない。
しかしそれはあくまでも3人の中だけの話であって・・・・・・珠希さんにとっては非常識極まりない提案だったと思うので、素直に謝罪した。
頬をぷくりと膨らませ唇の先を尖らせた珠希さん。
すこしトゲのある言い方とは裏腹に怒っている様子はなく、どこか小さな子供が拗ねているような感じだった。
「ゆり子さんの治療のことは驚いたけど――― そのおかげで私たちは結婚できたんだし――― でも、この前の信太さんの提案には本当にびっくりしたんだから。新妻としては複雑な心境よ」
拗ねたようでいて、甘えたような言い方。
珠希さんも俺と同じものを飲んで相当に酔っていた。
「で、ですよね。そこは謝るしか・・・・・・」
「あ~敬語になってるぅ」
「おっと」
「でも~折角ゆり子さんが協力してくれるっていうし・・・・・・ 達男さんは私が許可するならって―――」
「俺は珠希さんが嫌ならやめてもいいよ。もう少し考えれば他の治療法が見つかるかもしれないし」
「ふふ、大丈夫よ。ただ――― 正直言うとね、達男さんがゆり子さんで興奮してるところを見るのはイヤ。だけどよく考えたら信太さんも私と一緒の気持ちなのよね」
「うーん、どうなんだろうか。実際、少し麻痺しているところがあるかも」
「そういうものなの? あたしとは出来ないのにゆり子さんとは・・・・・・ でも信太さんが一緒にいてくれるのなら大丈夫そう」
俺が提案した女性恐怖症克服の方策『人妻バイアグラ作戦』とは―――妻のゆり子を強制勃起薬とする作戦だった。
ゆり子の体を使って木村を欲情させ、勃起したところで近くに待機させた珠希さんに挿入を試みる非倫理的なセックス。
そもそも木村は珠希さんという存在に興奮しない、という訳ではないのだ。過去のトラウマによる女性恐怖症によって勃起することができないだけ。
そこで新妻の珠希さんと比較して、接してきた時間―――馴れた存在の女性であるゆり子が前回と同じように擬似的に手ほどきをして、最終的には珠希さんと結ばれる、というもの。
「荒療治だけど上手くいくと思う。一応、言っとくけど――― 木村が勃起するのは動物的な反応であって、ゆり子に対して特別な感情があるとかじゃないから」
「特別な感情? それじゃあ信太さんだって困るでしょ。わかってるから・・・・・・優しいのね、信太さん」
スナックのママとして酔った客を相手に働く珠希さんには、殊更に言わなくてよかったセリフだったのかもしれない。しかしこれは自分自身を納得させる言葉でもあったのだ。
「―――先生、1つだけ質問がありま~す!」
少し照れた表情の珠希さんは、学校の教室で先生に質問するように真っ直ぐ上に手をあげた。
「ん?」
「その・・・・・・ 達男さんの準備・・・・・・あそこが大きくなったとしてね―――――― 女の私はどうやって準備したらいいんですか?」
・・・・・・確かに・・・・・・その発想は男の俺には無かった。
呆然として言葉を失う俺に、悪戯っぽい視線を向ける珠希さんが首をこくりと傾げる。『女性の準備』って、アソコが濡れる事だよな――――――。
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