カウンターに置かれているディスプレイがやたらと眩しいデジタル時計を見れば、時刻はとっくに10時を回っていた。
部長の誘いは災難だったが、吾妻と出くわさなかったことは幸運だったと思う。
「―――ごめんね~お客さん来なかった?」
「大丈夫、誰も来なかったよ」
店の扉が開いてコンビニの袋を下げた珠希さんが戻ってきた。
氷を切らしたということで、近くのコンビニへ行っていたのだ。俺はその間、ひとりで店番を頼まれていた。
「外に出たらもう雨が降ってたわ」
どうりで他の客が来ない訳だ。珠希さんがママを務める店が繁盛しない理由はない。
降り出した雨が客足を遠ざけていたのなら、今夜の俺は相当に運が良かったみたいだ。天に感謝しなければならない。
なぜなら珠希ママと2人きりで楽しい時間を過ごせたんだから。こんな気持ちは絶対にゆり子と木村に知られてはいけない・・・・・・。
見れば珠希さんの髪は雨で濡れていた。立ち上がってポケットからハンカチを取り出すと珠希さんに手渡した。
「あっ、ありがとう。やっぱり信太さんは優しいな~」
「き、キムだって同じことするよ」
「な~んだ、残念。ちょっとくらい下心があってもよかったのよ」
「・・・・・・」
首を少しだけ傾げる仕草の珠希さんは、目の前に立った俺の顔を下から見つめた。
こういう時は何と返せば正解なんだろうか・・・・・・。
もし正解があるとしたら、行きつく先の答えが定まってないと―――アイマスクで顔を隠した珠希さんの豊満な裸体が脳裏に浮かんだ。
「ダメだ、ダメだ」
すぐ邪念を振り払うように目を瞑り頭を左右へ振る。
そして目を開くと、きょとんとした顔で俺の様子を見つめていた珠希さんと目が合った。
年上でいつも艶っぽい雰囲気を纏っている珠希さんが見せた一瞬のあどけない表情に、ものすごく男心をくすぐられてしまった。
ああ~これぞギャップ萌え―――親友の奥さんなのに今すぐ抱きしめたいという気持ちになってしまう。
しばらく無言で見つめ合い、俺は段々といたたまれない気持ちになる。
「あ、明日も仕事だから、そ、そろそろ」
「うん」
「今夜はきっちり支払うから」
「ダメよ~ボトルはお世話になっているお礼だし」
「いや、でも――― 前回も払ってないし、チャージ料だけでも」
「ダ~~~メ。絶対に受け取らない」
「困るな~きっちりと料金を受け取ってもらったほうが次も顔出しやすいよ」
「じゃあ~こうしましょ。つけにしとくからね。そうしたら絶対に次も来てくれるでしょ」
経営上の話になるのだが、つけにする方がいいのか? いやそもそも珠希さんは俺から料金を回収するつもりは全くない。
ということは、すこし自惚れた考えだが、珠希さんは純粋に俺に会いたいと言っていることになりはしないか。
立ったままでの押し問答。
押し負けた俺は頭に手をやり困った表情になっていたと思う。
そしてどこか嬉しそうな様子の珠希さん。
そんな珠希さんの表情が曇ったのは、入口の外から下品な会話が聞こえてきた時だった。
『な、吾妻くんお願いだよ』
『モノには順序ってやつがありますのでね~、急に今夜って言われても』
『ママとやれるんなら多めに払うから。こんな話を聞いたら辛抱たまらんよ。吾妻くんは僕がママに惚れているのを知ってるだろう?』
『この際、裏の商売の話を誰が先生に喋ったのかは聞きませんがね―――珠希は結婚したんですぜ。人妻になったんですよ』
『なんと!? 結婚したの?』
『はい。私の許可なくね』
『吾妻くんのことだから、商売は続けさせているんだろう?』
『いいんですか? 人妻ですぜ?』
『その話を聞いてますます興奮してきたよ。人妻の珠希ママか―――今夜は聞いてた料金の倍払うから頼むよ!』
『先生も好きですね。ただ、そう興奮してはダメですぜ。※※※の先生が人目を憚らずそんな大きな声で―――』
会話の途中で扉がゆっくりと開いて、隙間から厳つい吾妻の顔が覗く。
そして俺の存在を認めてぎょっとした顔で目を見張った。
大きな話し声は思いのほか店内によく通り、『過ちの夜』を経験してきた俺には会話の内容を理解することは難しくなかった。
扉の前で立ち話が始まってから珠希さんは顔色を失い、少しでも会話の内容を俺に聞かせまいとして―――でもそんな方法はなくて俺の肩に手を掛け不安そうに俯いたままで縋っていた。
「なんだ、誰かと思ったら海原さんか」
驚いた表情をすっと引っ込めた吾妻は、客が俺1人なのを確認してから店内に入ってきた。
その後をよく肥えて頭髪の薄い、スーツ姿が窮屈そうな60代くらいの男が続いた。
「もう閉店だ。あんたは帰ってくれ」
客に対して一方的に閉店を告げるオーナー。どこまでも勝手な男だということがわかる。
「オーナー! お客様に失礼です」
「ううん? ああそうか。珠希は何も知らね~んだったな」
吾妻の言葉に、珠希さんは不安そうに俺の顔を見た。
珠希さんの中では、俺と吾妻の接点は過去にこの店で珠希さんを助けた場面の1回きりのはず。吾妻の口から俺の名前が出たことで混乱しているようだった。
―――ああ~~~俺の口から珠希さんに本当の事なんて言える訳がない。
そんな不安に揺れる珠希さんと動揺する俺を交互に見た吾妻は、物語のヴィランの登場シーンのように口の端を歪めて残忍な表情を作ったのだ。
背中に冷たい汗が伝い、ドクドクと心臓が早鐘を打つ。
「何度も言わせるんじゃねぇ、珠希。今夜は客を取れ!」
「―――やめて!! お、お客様の前で、な、なに言うのよ!」
「バカな女だな。そいつは大丈夫なんだよ!」
吐き捨てるように言う吾妻。
すぐにでもヤツに飛び掛かって殴り倒してやりたいと思ったのだが―――現実には震える両足は一歩たりとも前に動かすことはできなくて、血の気が引いた首筋の冷たい感覚だけをリアルに感じていた。
「なあ、海原さんよ。あんた珠希の亭主の親友なんだって?」
「・・・・・・な、なんで? なんでオーナーが海原さんを知ってるのよ」
困惑の色が顔に滲んだ珠希さんは吾妻に向けていた視線を俺に移した。
不安や戸惑いといった感情が混ざり合った瞳の中に不恰好に立ち尽くす俺の姿が映し出される。すると『過ちの夜』に襲われた得体の知れない恐怖が甦ってきていた。
「珠希、何度も言わせんじゃね~早く店閉めろ! 海原さんも帰ってくれ」
「海原さん、オーナーとはどこで会ったの?」
「・・・・・・・・・・・・」
何て答えればいいのだろうか。まったく言葉が浮かばなかった。次第に珠希さんの声が遠くに感じるようになった。
「ちょ、ねえ、海原さん!? 海原さん聞こえてる!!」
だらりと垂らした俺の両腕を珠希さんが力強く掴んで揺らした。
恐怖を感じて思考が停滞していた俺は、珠希さんの物理的な呼びかけに、ふと我に返る。そして目の前の幼い少女のように怯える珠希さんの瞳を見てしまい男として少しだけ力が戻った。
「ママ~久しぶりだね。聞いたよ結婚したんだって? 僕とママの間で水くさいな~」
「山根先生・・・・・・」
「それにしても裏メニューがあったなんて早く言ってくれなきゃね~これでも僕は常連なんだから。今夜はご祝儀をたっぷりとあげるからね」
珠希さんは男とは面識があるみたいだった。
当然、スナックのママと客としての間柄であったのは間違いないみたいだ。が、『先生』と呼ばれる男の今夜の目的は、獣性を宿した目を見れば明らかだった。
ここで恐怖に負けて吾妻の言うとおりに帰ってしまえば、珠希さんが『先生』と呼ばれた肥え太った男に弄ばれてしまうのは確実だ。
それが今夜じゃなくても明日かもしれないし、なんなら昨晩は別の男を客として受け入れていたのかもしれない。そう考えると、吾妻に逆らってまで俺がこの店に留まる意味はあまりない。
それでも、目の前で不安に怯える親友の奥さん―――傍らに縋る珠希さんをあの時と同じように置き去りにして帰れるはずもなく。
―――色々とヤバい状況だった。
もう珠希さんと一方的にヤッたという事実は、本人には隠し通せないだろう。
怒った珠希さんから木村とゆり子に話が伝わり、ゆり子とは離婚、そして木村にはぶっとい包丁で刺し〇され―――いやいや、あいつはゆり子とSEXしてんだからこれでイーブンだろう。
なんてことを考えている場合ではなくって、現実に思考を巡らせた。
そして俺らしいギリギリの打開策を考えついて、周りに悟られないように上着の内ポケットに手をやった。
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