隣家の車庫に、車の止まる音がした。主が仕事から帰ってきた隣家では、これから家族団欒の時間が始まるのだろう。 俺は、これから我が家で行われる、妻の素人療治を想像して何とも言えない胸苦しさを覚えた。 風呂上りの木村には、俺のスウェット上下を着てもらった。洗濯済みなので俺の体臭は大丈夫だとは思うのだが。 「じゃあ、座って」 冷えた水がなみなみ注がれたグラスを木村に差し出しながら、ゆり子がソファーに座るよう促した。 自分はオットマンに腰掛けたままだ。白色の七分袖のブラウス一枚に、薄紫のフレアスカートを履いていた。 膝が見えているので、若干丈が短いように感じる。改めて見ると、白いブラウスが電灯に透け、濃い色の下着が透けて見えていた。 今夜の妻の装いは、もちろん普段のものではなかった。 あえて、女性を意識させるために選んだもので、療治のためのものだということは分かるのだが、いくら親友の為にとは言え、夫としては心穏やかではいられない。 「石鹸は使ってないよね」 座った木村に対し、ゆり子が立ち上がりながら訊いた。 「言われた通り使ってないよ」 やれやれ、といった感じでうなじ付近に手をやり木村が答えた。 ゆり子は、「よし」と言って頷くと、ソファーの背面に回り込み、木村の後ろに立った。木村は緊張からか背筋を伸ばして微動だにしない。 俺は二人の様子がよく見えるように、木村の横で半身の姿勢になった。いよいよ始まる。ゆり子が俺の顔を見て頷いた。 始めるという合図と、夫に許可を取る、という二つの意味が含まれる頷きだと感じた俺は、嫌みな顔つきにならないように意識して、ゆっくりと頷き返した。 俺が頷き返すと、ゆり子はおもむろに木村の頭頂部へ鼻を寄せた。子犬のようにくんくん、と鼻を鳴らして嗅ぎ始める。 ゆり子の気配を近くに感じた木村は、より一層背筋を伸ばして、治療を受ける患者のように神妙な表情になると、静かに目を閉じた。 「―――臭くない。全然、臭くない」 独り言のように呟いて、ゆり子の鼻先は頭頂部からうなじ付近へ移動した。腰を屈めて、鼻を近づける。意識してのことなのかは分からないが、ゆり子の両手は自然なかたちで木村の両肩に乗せられた。 普段の家飲みでは、過去に軽いボディタッチがあったのかもしれない。 しかし今夜は、妻の行為に生々しいものを感じてしまい、一挙手一投足に過敏に反応してしまう。 ゆり子の両手が木村の肩に乗せられた瞬間、俺は胸の鼓動が速まったのを感じ、喘ぐようにして口から大きく息を吸い込んだ。 うなじには汗腺が集中しているのだろうか。 ゆり子は入念に嗅いでいた。鼻息が掛かるのか、木村はくすぐったいといった様子で、上半身を小刻み跳ね上げて反応していた。 これで、二人が笑い声でも漏らしていれば、恋人同士がじゃれ合っているように見えたに違いない。 入念な確認作業の後、「うん。ここも大丈夫」と言って、やっとゆり子の鼻先が木村のうなじから離れた。 すると今度は、悶々として様子を見ていた俺が、ほっと一息つく間もなく、ゆり子の手が木村の上腕を掴んだ。俺は、不意をつかれたかのように、息を詰まらせて一人で咳き込んだ。 掴んだゆり子の手に促される形で、木村は両手を上げて万歳の姿勢になった。無防備になった木村の脇に、躊躇なくゆり子の鼻先が近づいた。息を吐き、くんくん、と鼻を鳴らして息を吸った。 「うん。ここも、臭くない。腋臭を疑ってみたけど大丈夫。キム兄、臭くないよ」 ゆり子の言葉には、母親が小さな子供に言い聞かせるような優しい響きが含まれていて、木村は目を閉じたまま小さく頷いた。 半身の姿勢で二人のやり取りを見ていた俺は、妻と親友に対して何とも言えない疎外感を持った。 ゆり子がソファーの正面に戻ってきた。 俺に一瞬だけ視線を向け、その視線が俺の後方に流れた。意味が分からなかったが、「移動して」ということだったのだろう、俺と目を閉じたままの木村の間に割り込んで座った。 ゆり子の手が木村の肩を押した。背筋を伸ばしていた木村の体が、ソファーの背もたれに沈み込むように倒れた。ゆり子の鼻先が木村の胸部付近に近づいた。 慣れとは恐ろしいもので、男の体臭を嗅ぐ行為に、恥じらいや躊躇がなくなっていた。くんくん、と鼻を鳴らして確認作業を再開した。 「うん、大丈夫。キム兄、臭くないよ」 夫の親友の胸に顔を寄せ、子犬みたいに鼻を鳴らしている妻の目は、いつの時点からだろうか、どこか熱っぽく、語り掛ける語調にも甘い響きが感じられるようになっていた。 鼻先が首筋に移動した。下から鼻を寄せるかたちなので、ゆり子の顔が上を向いていた。ゆり子の様子ばかりを気にしていた俺は、暫くして木村が薄目を開けていることに気が付いた。 目を閉じて、臭いに集中しているゆり子の顔を、木村がじっと見下ろしていた。妻を見つめる木村の表情は乏しく、親友の俺でも何を考えているのか分からなかったが、木村の目にも妻と同様の熱っぽさがあるのを感じた。 「うん。臭くない。大丈夫、問題なし」 俺がヤキモキするなか、やっとゆり子の鼻先が木村の首筋から離れた。ゆり子の顔がある程度離れたところで、木村が慌てて目を閉じる。 姿勢を正して座り直したゆり子が、俺に顔を向けて大きく頷いた。俺もつられて頷き返す。 ゆり子が目を閉じたままの木村に、優しく語り掛けた。 「キム兄、全然臭くない。大丈夫、自信を持って。最初の彼女の言葉は嘘。誘いを断る口実で、咄嗟に口から出ただけよ」 木村がゆっくりと目を開いた。 「本当に?」 妻のペースだった。呆けた顔の木村が、呟くように聞き返した。 「うん。保証するわ。但し・・・・・・」 「―――但し?」 「シャワーを浴びた直後の体臭はね。素の体臭はオッケーってこと。こんどは、汗をかいて嗅がせて」 「へっ!?」 木村と俺は同時に声を上げていた。 「変な声を上げないで。子供が起きるじゃない。これから、家の周りを走ってきて。汗をかくまで、さあ行ってらっしゃい」 玄関で木村を見送っていた俺は、静かに背中を押された。俺は、渋々、親友のジョギングに付き合うことになったのだった。
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