10月下旬。
仕事終わりに珠希さんと連絡を取り、吾妻の不在を確認してからスナックに顔出した。
「いらっしゃい」
店の扉をくぐると珠希さんが笑顔で出迎えてくれた。
「こんばんは」
珠希さんと顔を合わせるのは、『人妻バイアグラ作戦』の夜以来。
店内には他の客の姿はなく促されるままカウンターの椅子に座る。
「連絡くれてうれしかった」
「あ、うん‥‥‥」
素直に喜べないのは、珠希さんが反社の経営者に利用され酷い状況に陥っているから。それに相手が親友の奥さんだから。
「信ちゃん、何飲む?」
「ビールかな。珠ちゃんも飲んで」
「は~い」
愛称で名前を呼び合うのは2人きりの時だけ。
それだけで背徳感が半端ない。早速グラスを合わせると、のど越しを楽しんだ。
「で、例の話なんだけど。11月の最初の週で調整しようと思う」
俺が言うと緊張した面持ちで珠希さんが大きく頷いた。どうやら意思は固まったみたいだ。
弁護士とのやり取りは、逐一報告している。その中で借金について聞いてみたが、珠希さん自身に個人的な借金はないとのことだった。
つまり吾妻の言いなりになる必要はないということで、後はあの男ときっぱり縁を切るだけなのだが。
「今まで無理やり客を取らされて、達男さんには絶対言えないようなことをたくさんしてきたわ。動画の撮影だって‥‥‥」
珠希さんがカウンターの後ろへ顔を向けた。そこには奥へと続く通路を遮る真っ黒いカーテンがぶら下がっていた。
あの向こう側には、俺が初めて珠希さんを抱いた部屋が―――。
「弁護士の先生は信頼できると思う。大丈夫だよ珠ちゃん。俺も同席するし、動画だって目の前でデータを消させるから」
吾妻は借金話をでっち上げ、長い間珠希さんを利用してきた。本来なら警察に捕まったっておかしくない。
でも、「あの男から縁を切れるんなら、それだけでいいの」と珠希さんは言った。
吾妻の恐ろしさを身をもって知っているからだろう。それに結婚したばかりの夫には、事情を知られたくない訳で‥‥‥。
考え抜いた末の彼女の意思は尊重しなければならないと思う。
「この店もあと少しの辛抱だから」
「客を取らされそうになったら、体調不良とか理由をつけて断ること。できる? 珠ちゃん」
「うん。そうする」
話し合いの日まで身を隠してもいいのだが、そうすれば異変を察知した吾妻が何をしでかすかわからない。いきなり木村の前に現れることだって考えられた。
だから弁護士のアドバイスで話し合い当日の直前まではスナックを辞めないことになっていた。
「絶対に上手くいく」
「ありがとう、信ちゃん」
珠希さんはこっちを真っすぐに見つめたまま、俺の手をカウンター上で両手で包み込むようにして握ってきた。
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。血流が速くなったせいか、一気に酔いが回る。
珠希さんの手は緊張からか少し汗ばんでいた。それが妙に生々しくて―――否応なしに人妻の彼女の存在を意識させた。
「‥‥‥た、珠ちゃん」
下半身がむくりと反応した。頭では親友の奥さんということはわかっている。だが、体を重ねた関係はなくならない。それはゆり子と木村にも当てはまる。
いつからか、『お互い様』という考えが頭の中に根を張っていた。だから罪悪感はさほど感じない。
「もう閉店しようかな‥‥‥」
そう言った珠希さんは、日本人形のような整った顔立ちに妖艶な笑みを浮かべた。


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