11月最初の週。
平日の昼間。
俺と珠希はミニバンの後部座席に座り、弁護士からの連絡を待っていた。
「吾妻は本当に恐ろしい男よ」
「大丈夫だよ。今日で全部終わるから」
震える珠希の肩を抱き意識して語気を強めた。そうでもしないと、彼女の存在が雪のように溶けなくなってしまいそうに思えたから。
これまでどんな酷い仕打ちを受けてきたのか‥‥‥。
想像するだけで怒りがふつふつと湧いてきた。
ポケットの中でスマホが鳴る。
取り出して電話に出た。
「も、もしもし‥‥‥」
「伊達です。木村さんをこちらに」
「わかりました」
打合せ通りの連絡だった。いよいよ正念場だ。
段取りは―――まずは伊達弁護士が吾妻の会社『龍企画』の事務所を訪ねる。吾妻の姿を確認してから、珠希さんを伴って話し合いに持ち込む、という流れだった。
「いよいよだ。珠希は吾妻と何も話さなくていいから。伊達先生が質問したら、そのことだけに答えればいい」
「信ちゃんがいるから怖くない」
車を降りると珠希が手を握ってきた。緊張のせいなのか、ものすごく冷たい。
昼間で周りの目があったが、気にせず強く握り返す。
龍企画は繁華街を外れた幹線道路沿いに建つ雑居ビルの5階にあった。薄汚れた外観で中に入れば、すえた臭いが鼻を突いた。
2人がやっとの狭いエレベーターで5階に上がる。
エレベーターを出てすぐ目の前のドアには、黒地に金色の文字で『龍企画』と書かれたプレートが掛かっていた。
相手は裏社会の人間だ。ドアの向こう側に吾妻がいると思うだけで、緊張と恐怖が一気に押し寄せてくる。
いつのまにか自分の足が震えていた。力を入れようが止まることはない。
本来であればこの場所にいるのは珠希の夫のはず。でも俺だった。偶然の出会いによって関係を深め、木村が知らない彼女の境遇や苦しみを知ってしまった。
だから、もう後戻りは出来ない。
「失礼します」
丁寧な口調で扉を開け軽く頭を下げた。こんな時でも敢えて社会的な礼儀作法は守った。
それは相手が恐ろしい存在だからではない。こっちは、法律に則って話し合いをする、という意思を示したかったからだ。
今日から珠希は自由になる。
もう二度と吾妻という下劣で危険な人間に手出しはさせない。
ドアを開け中に入るとそこには伊達弁護士の背中と、その向こう側に吾妻が立っていた。
ストライプ柄の派手なスーツ姿で、珠希を見た瞬間大きく目を見開いた。そして奴の濁った視線が俺に移ると目を細めた。
喉が渇き背中を冷たい汗が伝う。
相手の気迫にのまれそうで、「落ち着け」と心の中で自分自身に言い聞かせる。
そんな俺の内心を見透かしたように、「ふん」と鼻を鳴らした吾妻が口を開いた。
「まあ立ち話もあれですよ、先生。奥の部屋へ―――」
事務所には吾妻のほかに40歳前後の女性の事務員の姿があった。
こっちに一瞥をくれると、そのままそっぽを向いてしまう。
あらかじめパソコンで会社の概要を確認していた。ホームページには人材派遣や動画の企画制作とあったが、すぐに頭に浮かんだのはスナックの奥にある件の部屋だった。
間違いなく怪しい薬を飲まされた時の珠希の痴態―――その動画も存在しているだろう。
元からまともな会社とは思っていない。吾妻の下で働いている人間も普通ではなさそうだった。
俺たちは吾妻に促されるまま奥の応接室に通された。
応接セットの椅子に腰かけると吾妻がドアに向かって大きな声を上げる。
「貴子―――! さっさとコーヒー持って来い!」
その声に隣に座る珠希の肩がびくりと跳ねた。
少しの間があってドアの向こう側から気怠そうな返事が聞こえる。
「はい、はい―――いま用意してますから」
「はぁ‥‥‥人手不足でね。社員教育も難しい時代だ。まあ、珠希は例外だが」
そう言って吾妻は珠希の方を見た。
隣に座る彼女は真っ青な顔で視線を床に落としていた。
伊達弁護士は向かい側に座り、吾妻はコの字に配置された中央の上座に位置している。
「さて―――どういうことか説明してくれ、珠希」
低く重い声を響かせ吾妻があごをしゃくるように言った。
珠希はうつ向いたままで固まっている。
「今日は話があって―――」
「―――海原さん、あんたには聞いてねえよ!」
珠希のかわりに発した俺の言葉は、吾妻の恫喝するような声にかき消された。
恐怖で視界が狭まり心臓がばくばくと早鐘を打つ。
そう、相手は裏社会の人間だ。海千山千でこういう話し合いの場には慣れているはず。
話し合いの主導権は簡単に握らせてもらえそうになかった。


コメント
クライマックスでしょうか。
更新されてて嬉しいです。