振り返って、ゆり子の姿が見えなくなったのを確認した俺は、先を走る木村に声を掛けた。
「キム、ちょっと待てよ。ゆり子のやつ俺たちを殺す気か。酒飲んで走ると死ぬぞ」
俺は立ち止まった木村を追い越すと、ウォーキングに切り替えた。木村も俺に倣う。
陽が落ちて、辺りはすっかり暗くなっていた。部活終わりの学生や、仕事帰りのサラリーマンともすれ違うことはなかった。
家の中での蒸し暑さが嘘のように、住宅街に流れる緩やかな風が心地よく、酔い醒ましには丁度良い散歩となった。暫く歩くと、後ろの木村が真面目な口調で口を開いた。
「今日はありがとう。俺の話を真剣に受け止めてくれて」
改めて礼を言われると、少し照れてしまう。
「腐れ縁ってやつだな。見合いを絶対に成功させようぜ」
前を向いたまま俺は答えた。
「本当にありがとうな。―――ただ、なんだか悪いな」
「悪いって、何が?」
俺は敢えて振り返らずに、前を向いたままで後ろの木村に聞き返したが、頭の中ではゆり子が木村の体に鼻先を付けている様子が蘇っていた。
「ゆり子ちゃんまで、協力してもらって・・・・・・」
「今夜のことは、ゆり子の提案なんだ。だから、悪いとか思うな」
酔いのせいだろうか、変に強がっている自分がいた。
今夜は俺の出番はなく、妻と親友を眺めることしかできていない。言葉とは裏腹に、妻と親友に対して疎外感と小さな嫉妬心が持ち上がっていた。
家の周りを大きく二週、じんわりと汗が滲む程度で帰宅した。色々と考えているうちに、酔いはすっかり醒めていた。
「お帰り。二人とも早くない」
酔いが醒めた俺たちとは逆に、ゆり子は機嫌よく、ほろ酔い状態だった。
「酔って走れるかよ。殺す気か」
「はいタオル」
俺の抗議には耳を貸さず、ゆり子は用意していたタオルを木村に差し出した。
「軽く拭うだけにして」
「ありがとう」
タオルで首周りを拭いている木村を、ゆり子は手招きしてソファーに座らせた。
「俺のタオルは?」
リビングの入口に立ったままの俺は、木村にだけタオルを用意していた妻に、拗ねた子供のような口調で訊いた。
「シャワー。すぐに浴びて」
「でも―――」
「―――ダメ。あんたの汗は臭いの。すぐにシャワーを浴びて。ちょっと、キム兄はあんまり汗を拭かないで。さあ、すぐに始めるよ」
有無を言わせないゆり子の口調。妻の強情な性格を承知している俺は、早々に反論を諦めた。着替えを用意するために一人リビングを離れる。
背中越しに、「はい、それじゃあ目を閉じて」とゆり子の声が聞こえた。
着替えを準備して一旦リビングに戻ると、ゆり子はソファーの後ろ側に回り込み、早速、木村の後頭部に鼻先を近づけていた。
酔いのためか潤み気味の目を細め、くんくん、と子犬のように鼻を鳴らしている光景は、健全な家庭のリビングには似つかわしくなく、どこか淫猥なものに映った。
体臭を嗅がれることに慣れたのか、木村は目を開けたままで、缶ビールを片手に余裕すら窺えた。
暫くリビングの入口に佇んでいた俺は、どんな表情だったのか。
二人を凝視する俺に気が付いた木村が、今夜何度目かの申し訳なさそうな表情を作った。
木村が顔を向けた様子に、懸命に嗅いでいたゆり子が驚いた様子で顔を上げた。着替えを取りに行った俺が、一旦リビングに戻ってくるとは思わなかったようだ。
「ま、まだ行ってないのね。早く行って。あっ、その前に様子を見てね。起こさないようにね」
ゆり子が見せた驚きの表情や潤んだ瞳に、俺は心が騒めくのを感じつつ、重たい足取りでリビングを後にした。
子供の深い眠りを確認してから廊下突き当りの風呂場に向かう。広い家ではないので、リビングの声は十分に聞こえた。
ただし、脱衣場の扉を閉めてしまえば、狭い家であってもリビングの様子は窺えない。俺は一向に静まらない心の騒めきを抑えようと、少し熱めのシャワーを素早く浴びた。
普段なら、妻のゆり子と俺の親友の木村を2人きりにして、別段気掛かりなことはなかっただろう。しかし、今夜だけは違った。心の騒めきがどんどん大きく激しくなってゆく。
脱衣場で体を拭う間、リビングからは二人の声は聞こえてこなかった。騒いでいる訳ではないので当たり前なのだが、例えばボソボソという扉越しの不明瞭な声だったり、物音ひとつしないことが妙に気になった。
体を拭くと、服を着る前に、廊下に通じる脱衣場の扉を静かに開けた。
急いで服を着ていると、リビングの微かな話し声が耳に届いた。
「―――もう、真面目にして」
ゆり子の声だった。
すこし怒っているように聞こえたが、その口調にどこか甘い響きが含まれていて、本気でないことが窺えた。
そういえば、新婚当時のゆり子は、俺が構ってやらない時によくこんな声を出していたように思う。
「ごめん。ゆり子ちゃんの鼻息がくすぐったいから」
木村の声は、調子に乗ってふざけている時の声だった。いつもの明るい調子を取り戻したようだった。
「はい、もう一回。ちょ、ちょっと。あっ、じっとしてよ」
「ははは。ゆり子ちゃん、くすぐったいよ。タイム、タイム―――」
「―――こら、ちょっと、もう・・・・・・」
暫くの沈黙の後に、ゆり子の声が続いた。
「―――もう、仕方ない人。※※※しょっぱいよ。キム兄が動くから※※※が当たったじゃない。※※※が、いたらどうするのよ」
声のトーンを落としたようで、所々聞き取れないのがもどかしい。ゆり子は呆れたような口調でも、どこか楽しそうだった。
「子犬みたいで可愛い※※※。ごめん。拭く?」
「大丈夫よ。人妻に※※※って、バカじゃないの。途中だけど、ここまでは汗臭くないし、味も※格。続きはペロペロし※※※」
「マジ!? お願い※※※」
所々聞き取れない会話の後に、二人の重なり合う笑い声が聞こえた。
断片的な会話から推察すると、ゆり子の口がアクシデントで木村の肌に触れたようだった。
急いでいたはずの俺は、暫く固まって動けなくなってしまった。リビングの会話に集中して耳をそばだててみるも、心臓の鼓動が邪魔をした。
「ごめん。じっとするから※※※、もう※※※、信太が―――」
「うん。あいつ長風呂※※※、大丈夫だと※※※。 はい、上を向いて―――」
リビングで行われていることは、妻の素人療治だと判っていても、不明瞭な会話が言いようのない不安を煽った。
拭き残しの体に慌てて服を身に着けた俺は、廊下に出るとリビングに聞こえるように、わざと音を立てて脱衣場の扉を閉めた。
リビングに戻ると、ゆり子はソファーに座る木村の正面で身を屈めていた。鼻先は木村の大きく開けた口の前にあり、ゆり子の両手は、自然な感じで木村の肩に添えられていた。
その光景に毛穴から冷たい汗が噴き出した。動揺する俺に、ゆり子が平然と顔を向けた。
「あら、早いわね。ちゃんと洗ったの?」
夫の親友といっても、俺ではない男の肩に手を乗せ、体を反らせて尻を突き出し、顔を摺り寄せているゆり子のポーズは、とても人妻のものには見えなかった。
ゆり子の問い掛けは俺の耳に残らず、質問に質問で返した。
「ゆり子、な、何してるんだ?」
親友の手前、冷静な口調を意識したのだが、どもって早口になった。
「何って、口臭チェックよ」
動揺を隠せない俺とは対照的に、ゆり子は平然とした口調だった。
呆れたような表情のゆり子が顔を正面に戻すと、口を開けたままの木村が目だけで俺を見た。目尻を下げ、申し訳なさそうな表情を作った。
蚊帳の外の俺は、缶ビール片手にゆり子の口臭チェックを見守った。俺が風呂上がりの缶ビールを空けた頃、口臭チェックを終えたゆり子の総評が始まった。
「はい、合格ね。お酒の臭い以外は、口の臭いもオッケーよ。汗をかいた体も、ぜんぜん大丈夫だっ
たよ。女の私が保証する。キム兄の体は臭くない」
ゆり子が大きく頷いて俺と木村を交互に見やった。
「それにね、キム兄の体臭だけど・・・・・・ 正直に言うとね、私は好きだわ。なんだか、落ち着く感じ」
耳まで赤くして、恥じらいを見せつつゆり子が言った。
いくら夫の親友のためとは言え、リップサービスが過ぎるのでは、と思う。自信を持って、というようにゆり子がもう一度大きく頷き、木村が頷き返す。同じリビングにいながら、俺の中の疎外感が大きくなってゆく。
たしか療治の前に、本当に臭くても正直に言わない、とゆり子は言っていた。しかし、恥じらうゆり子を見ていると、総評の言葉は本当のことだという気がした。
「なんだか自信が湧いてきた。本当にありがとう」
立ち上がった木村が、俺とゆり子に深く頭を下げた。
「そうか、よかったな。だけど、本当に女性恐怖症は治ったのかな」
素朴な俺の疑問に、ゆり子が顔をしかめた。
「ちょっと、私が確認したのよ。絶対に大丈夫だから自信を持って」
「うん、ゆり子ちゃんのお墨付きだからな。もう俺は自分を臭いとは思わないよ」
両の握り拳を胸の高さに持ち上げ、木村は力強く俺たちを見て頷いた。
「体臭のコンプレックスは解消できたのかもしれないけど、肝心の女性恐怖症はどうなんだ」
疎外感に苛まれていた俺は、すこし意地悪い気持ちでゆり子に食い下がった。
「体臭のコンプレックスは、女性恐怖症の大きな要因だったと思うの。それを取り除いたから、改善はされてると思う」
苛立ちを隠さないゆり子が、俺を無視して木村に向いて言った。
険悪になりつつある夫婦の間に立った木村が、苦笑いを浮かべて頭を掻いた。
「信太、ゆり子ちゃん、今夜は本当にありがとう。確かに、信太の言う通り女性に対する苦手意識は完全には払拭できてないかもしれない。だけど間違いなく良い方向に向かっていると思う。長年苦しんだ俺には大きな前進だよ。見合いの事を考えると正直怖かったけど、なんだか上手くやれそうな気がする」
木村が俺たち夫婦に向かってもう一度頭を下げた。
顔を上げた木村の表情はどこか晴れやかで、そんな親友の姿を見た途端、不思議なもので心の中の騒めきは綺麗に消え失せていた。
それよりも、勝手に疎外感や嫉妬心を芽生えさせた自分が恥ずかしく思えた。
俺は小心な心の内を悟られないように声を上げた。
「よし! 今夜は飲もう―――」
ゆり子が冷えた缶ビールを冷蔵庫から持ってくると、今夜出番のなかった俺は、ここぞとばかりに声を張って音頭を取った。
「見合いの成功を祈願して、乾杯!」
「乾杯! 2人とも本当にありがとう」
「キム兄、お疲れ様」
リビングには、いつもの家飲みの雰囲気が戻り、俺たち夫婦と木村で雑談に興じた。
それは、俺がトイレに行こうと立ち上がった時のことだった。
つまみの皿に手を伸ばしていた木村の手と、後から伸ばしたゆり子の指先が僅かに触れ合ったのだ。その瞬間、木村の体が大きく痙攣したように跳ね上がり、素早く手を引っ込めたのだが、拍子につまみの皿がひっくり返ってしまった。
皿は割れなかったものの、大きな音を立てて床に落ち、ゆり子は驚いて小さな悲鳴を上げた。
「ごめん」と言った木村の表情は瞬時に翳った。
女性といっても、よく慣れた間柄で俺の妻だ。
それに、ついさっきまで体臭を嗅がせていた女だった。俺とゆり子は過剰な反応を示した木村を見て、本人が抱える女性恐怖症の根の深さを思い知ったのだった。
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