介護ベッドの上で不自由な体を横に向けた和義は、化粧台に座っている風呂上がりの妻の背中をぼんやりと眺めていた。
背中に届く艶のある美智の黒髪は後頭部で団子に束ねられ、汗をかいたうなじが覗いていた。
半袖シャツと短パンの涼しげな部屋着。背中にはブラジャーの線がくっきりと浮かび上がっている。半パンの裾からのびる太ももは、冷房の中で湯気を纏ってほんのりと上気していた。
(俺の身体がこんなことにならなければ・・・・・・)
三十路前の妻―――女盛りの色気をまとった美智の背中を眺めながら和義は思った。
肉体的な反応を失った現実は受け入れていた。しかし最近では、性欲そのものが減退している自覚があり、強い不安を覚えていた。感覚のない下半身を手で触ってみて、自然と小さな溜息が漏れた。
「もう休むから薬を頼む」
「・・・・・・このところ毎日ね。やっぱり眠れないの?」
小さく擦れた声で言った和義に、手に取った化粧水を顔に馴染ませながら鏡越しで美智が聞いた。
「色々なことを考えると眠れないんだ」
「あなた・・・・・・ きっと大丈夫よ。リハビリを頑張れば歩けるようになるって先生が言ってたし、お義父さんやお義母さんもついてるんだから」
「・・・・・・」
「水を持ってくるわ」
一方的に会話を終えた和義は、自分の中の苛立つ感情を必死で抑える。負の感情が次第に大きくなり、それを献身的に尽くしてくれる妻にぶつけてしまいそうで怖かった。
実家に戻ってしばらく経った頃から和義の口数が段々と減って、夫婦の会話もめっきり少なくなっていた。
就寝の準備を終えた美智は病院から処方されている睡眠導入剤を抽斗から取り出すと、台所へ水を汲みに行った。
その間、和義は隣のベビーベッドに寝かされている桃香の寝顔を見ていた。すやすやと安心しきった愛おしい寝顔。父親として守ってやらなければならない小さな命だった。
しかし自分の不自由な身体の事を考えると、将来への不安が一気に押し寄せてきた。この歳で退職前の父親と母親に頼らざるを得ない境遇が惨めで情けなく、非常に不安定なものに感じた。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
―――和義は子供のぐずる様な泣き声で目を覚ました。
感覚では就寝してから1時間と経過していない。いつもなら妻が起き出して面倒を引き受けるのだが、一向に泣き止む気配がなかった。
ふと授乳や夜泣きで寝不足気味の妻の顔が頭に浮かんだ。いつも頼りっぱなしの妻を起すことに気が引けた和義は介護ベッドの背もたれを上げた。ジジジという蝉の鳴き声に似た駆動音が室内に響く。
「よしよしパパだよ」
和義は不自由な体で子供に何度も声を掛ける。
しかし期待した反応はなく、泣き止むどころか更にぐずって悪化する。それも当然のことで、交通事故に遭ってから和義は父親らしいことを何一つできていない。
困り果てた和義はベビーベッドの向こう側―――布団で寝ているはずの妻に声を掛けた。
「美智、起きてくれ美智。美智――― うん?」
しかし返事はなく、ベビーベッドから視線をずらした和義は間接照明の薄暗い灯の中で空になっている布団を見た。
(トレイだろうか?)
そう思った和義の耳に、台所を挟んだ居間の方からテレビの音が漏れ届いた。
(起きたのか・・・・・・)
夫と同じ時間に就寝する必要はない。
観たいテレビもあるだろう。
妻が自分のために時間を使う場面をしばらく見ていなかった和義は、少しだけ安堵する。
と、ベビーベッドの方から、すやすやと子供の寝息が聞こえてきた。オムツの中が気掛かりではあったが、お腹が空いた訳ではなかったようだ。妻の自由時間を邪魔せずに済んだことでホッとした和義は、ベッドの背もたれを平らに戻して静かに目を閉じた。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
築30年を経過したマンションのそんなに広くはない居間―――。
今風のリビングダイニングにアイランドキッチンといった瀟洒な作りではない。集合住宅の部屋を少しばかり広くあつらえただけの空間。
扉一枚を隔てた寝室からは、照子の高らかなイビキが聞こえていた。
ソファーに義父と肩を並べてちょこんと座った美智は、正面に据えられたテレビに集中して映画を観ていた。
週末の義父との約束―――夫が眠ると美智は静かに起き出した。
就寝時に夫が一方的に会話を終わらせたことで、義父と映画を観る、ということを伝えることはできていなかった。
長男の嫁と義父の2人だけの映画鑑賞会は始まったばかり。
映画は先週末に昌義が寝落ちして観れなかった時代劇だった。
レビューは星4.8の高評価。
CGというものが存在しない当時の映像は、どうやって撮影しているのだろうかと不思議に思うくらいにクオリティーが高い。
公開当時から現在に至るまで、迫力ある殺陣と残酷な描写で世界の映画通を唸らせてきた作品だった。
「―――お、お義父さん、なんだか怖い」
冒頭の迫力ある場面で美智が声を上げた。
画面の中では、一対一の決闘シーンで片方の首が落ち、切り口から大量の血が噴き出していた。
口に手を当てた美智が、縋るような表情で昌義の顔を見た。呼び掛けられた昌義は、義娘の顔を見返して息を呑んだ。
眉間にしわを寄せた不安そうな表情―――閉じ切らない口許から覗く赤い舌先と揺れる潤んだ瞳。
男として枯れかけていた昌義に十分過ぎる色気が伝わってしまう。呆然とした昌義は自然と風呂場で覗いた卑猥なオッパイを思い出した。
そう―――義父としての理性は、先の風呂場でとっくに失われていた。
義娘に対して、あってはならない劣情を催す。
「私が隣にいるから大丈夫だよ」
「はい」
「それにしても意外と怖がりなんだな」
「そうですか? 意外ですか? あれぇ、、、普段の私ってお義父さんにはどう見えてるんです?」
「和義にはもったいない最高のお嫁さんだと思っとるよ。もう少し若かったらこの私が貰っとる」
「お義父さんが貰う・・・・・・!? もう変な褒め方になってます」
「おっと、こりゃいかんね」
「もう~お義父さんったら―――」
他の家族が寝静まる中、お互いに小さく笑い合った。義理ではあるが普通の仲の良い親子の会話だった。美智自身もよくしてくれる義父に気を許し、安心しきっていた。
美智の視線が再びテレビ画面に向かい、映画に集中する。
その隣では―――久しぶりに勃起した昌義が、映画を観ることなくいやらしい横目で柔らかな曲線の義娘の体を盗み見ていた。
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