運転席の清三と助手席の恵美子がミニバンを後にしてから30分近くが経過していた。
車内ではセックスを終えたばかりの正志と梨花が、汗ばんだ体を離して乱れた呼吸を整えていた。
肩で息をしている正志は、昨夜の出来事と出発前に妻と清三が隠れて抱き合っていた場面を思い返し、いっそのこと隣の梨花に互いの伴侶の不貞を告白してやろうかと考えた。
「どうしました?」
梨花はチラチラと視線を寄こしてくる正志に対して首を傾げて不思議そうな顔をした。
その仕草はどこかあどけなく、清三の目には無垢な少女のように映った。
「えっ!? い、いや、何でもないよ」
思わず言葉を詰まらせる清三。妻には感じたことのない新鮮な魅力だった。
あどけない表情と明るい調子の声を聞くと、不貞を告発してやろうという考えが霧散した。
車内では子供たちの規則正し寝息がいつの間にか消えていた。
2列目の座席で子供たちの目を覚ます気配があり、正志と梨花は会話を止めた。
「ママは?」
起き出した香住が目をこすりながら不安そうに車内を見回した。そして3列目のシートに大人の存在を認め安堵した表情を作った。
「目が覚めた? ママの所へ行く?」
「うん」
優しい笑顔で梨花が言うと、香住は元気よく返事をした。正彦も目を覚まし、「トイレに行きたい」と訴えた。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
車で溢れかえる駐車場を歩きながら、正志はサービスエリア内の建物の方向に目を凝らしていた。
多くの客の中に、恵美子と清三の姿は見つからない。すぐ横で香住の手を引く梨花が小声で話し掛けてきた。
「どこにいるんでしょう?」
「う~ん、どこだろうね―――」
言った正志は手のひらで庇を作り、午後の強い日差しを遮るようにしてサービスエリアの敷地内を大きく見渡した。
さっきまで梨花とカーセックスを愉しんでいた正志には、2人の戻りが遅いなどと言える立場にない。それでも妙な胸騒ぎがあった。
視線の先にドッグランの設備がある。
その横の方にトイレがあった。
駐車場で立ち止まった正志は、トイレの出入り口を凝視した。
その場所には客でごった返すサービスエリアの中で唯一の密室が存在する。恵美子と清三が不貞行為に及ぶとすればその個室意外には考えられなかった。
不安に駆られた正志がトイレの方向に視線を向けていると、やはりと言ったところかすぐに妻の姿を捉えることができた。
恵美子が出てきた個室の扉は―――遠目にも男性用の入口と女性用の入口との中間にある男女共用の多目的トイレだと分かった。
夫の視線には気付かず乱れた髪を整える仕草の恵美子は、そのまま1人で売店が入る建物の方へ歩いて行く。
妻の背中が見えなくなると正志は再び共用トイレの入口に視線を戻した。
スライド式の扉がゆっくりと開く。そして何食わぬ顔の清三が姿を現したのだった。
「筒井さん、どうかしました?」
立ち止まったままの正志を訝しむようにして梨花が言った。梨花も正志の視線の先に夫の姿を認めた。
「あっ! あんな所にいた。恵美は一緒じゃないみたい」
「そ、そうだね。たぶん売店にいるんじゃないかな・・・・・・」
正志と梨花が立ち話をしているところをトイレから出てきた清三が見つけて手を振った。煙草に火をつけて正志と梨花の方に歩み寄る。
「思ったより混んでた。いま車に戻ろうとしてたところだ」
頭を掻きながら清三が言った。どこか言い訳じみていた。
共用トイレの中で何をやっていたのかは、正志には容易に想像がついた。
自然と苦笑いが漏れる。まさか客で混雑しているサービスエリアの中で、同じ時間帯に互いの伴侶を取り替えてセックスをしていようとは‥‥‥。理不尽な現実に正志は深く考える事を止めてしまった。
「恵美は?」
「車に戻ってないのか?」
何も知らない梨花が、紫煙をくゆらす清三に聞いた。
カーセックスの後だというのに、いつもと変わらない口調だった。
質問に質問で返した清三は、左手で鼻の頭を触りながら梨花と目を合わせないでいた。
―――結局、2家族が合流してから買い物などで1時間近くをサービスエリアで費やした。
その後、運転を交代した正志の隣には恵美子が座り、3列目のシートには川野夫婦が座った。
運転の傍ら正志は横目で恵美子を見た。疲れた表情の中にも満ち足りたような感情が読み取れた。それに頬にかかるほつれ毛が妙に色っぽい。
サービスエリアを出発してから互いの夫婦の会話はなかったものの、子供中心の会話は絶えないでいた。
「次は釣りだよね。川野のおじさん、いつ行くの」
「そうだな―――」
「僕、大きな魚を釣りたいんだ」
「なら、海釣りだな」
「やった~!」
次の計画を勝手に進める正彦と清三。その会話に恵美子が割って入った。
「川野さんを困らせては駄目よ」
「困らせてないよ。川野のおじさんが連れて行ってくれるって約束したんだ」
「そうだな、行こう」
「うん!」
「すみません。勝手に約束なんて・・・・・・」
「いや、俺が言い出したんだ。恵美ちゃんも一緒に来るだろう?」
「えっ!? わ、私も――――――」
清三の誘いに戸惑った恵美子が、顔を赤くして俯いた。そんな妻の様子を正志は慎重に窺っていた。
―――いったい何を期待しているんだか・・・・・・
振り返ればセックスレスの期間が長すぎたのだと正志は思った。このキャンプで欲求不満の恵美子の身体に火がついてしまったのだろうか―――。
いや、それだけではないのだろう。清三とのセックスが良かったのだ。相性というやつだろう。大きな体格に比例して清三は立派な一物を備えている。体の小さい正志は雄として見劣りした。
悔しい気持ちが込み上げてきた正志はハンドルを握る手に力を込めた。昨夜の悩ましい恵美子の声が頭の中で反芻する。
心の騒めきは家に帰り着くまで収まることはなかった。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
キャンプから帰ってきて3日が経過していた―――。
筒井家と川野家の生活は日常に戻り、正志が口をつぐんでいることで、どちらの家庭にも表面上は波風は立っていなかった。
うだるような暑さに加え、妻の不貞の事実に心の整理が追い付かず、正志は重い足取りで駐車場から銀行裏の通用口に辿り着いた。
「おっす」
背後から自信に満ちた野太い声が掛かった。朝から聞きたくない声だった。この思いは、実は妻を寝取られる以前から持っていたものだった。
男の同期であり部下でもある正志は、小さく振り返り相手の顔を見ないまま、「おはようございます」と敬語で返事をした。
職場での人間関係の使い分け―――それは正志と清三が以前一緒に会議へ出席した後のこと。誰もいない喫煙所に呼ばれ、「いくら同期でも人前では敬語を使え。一応、俺にも立場ってものがある」と冷たい口調で言われたのだ。
小さな事だと考える人間もいるだろうが、その日から正志はわだかまりを持ってしまった。そんな面白くない職場環境の中で、同期であり上司である男に妻を寝取られた。
それでも、ただ寝取られただけであったのなら、話はもっと単純だったはず。
―――しかし、そうではなかった。
清三の妻である梨花と関係を持ったことで、複雑な状況に陥ってしまった。歪な現状を打開する手立てを正志は見つける事ができないでいた。
「筒井に早く伝えたい事があるんだ」
「・・・・・・」
清三が正志を呼び止めた。先にドアを潜った正志の背中がピクリと反応してその場に留まる。
訝しんだ顔で正志が振り向けば、真面目な顔をした清三が立っていた。
「役席推薦の話なんだが―――お前に決まったよ」
「―――えっ!?」
唐突な話に正志は言葉を詰まらせた。
「誤解するなよ。同期だからじゃないぞ。あくまで仕事の能力を上司として評価してのことだ」
上司の威厳をもって言ったはずの清三の口の端がいやらしく歪んで見えた。その場で立ち尽くす正志の肩を叩いて先に歩いてゆく。
どこか不信感の募る言い方だった。
清三と妻の不貞。
梨花との関係。
それに加えて突然の役席推薦の話。
この数日間で正志を取り巻く環境は目まぐるしく変化していた。
そして後日のこと―――。
本店の人事部から呼出しを受けた正志は海外アジア支店勤務の打診を受けたのだった。
「こんな時期に単身赴任だなんて・・・・・・」
釈然としないまま正志の役席昇進の話は進んで、夏の終わりには海外での単身生活をスタートさせたのだった。(完)
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