入籍後の2人―――木村と珠希さんの日常は、周りが驚くほどに何の変化も見受けられなかった。
その大きな理由の1つが、別居生活によるものだろう。それは木村の実家の改築が終わるまでということになってはいたが、あと3ヶ月近くはかかるらしい。
お互いに木村の実家と珠希さんのマンションを行き来して、それなりに楽しくやっているとは聞いていた。
そんなある日の休日―――、晴れて夫婦になった木村と珠希さんが、挨拶のために我が家を訪れていた。
「ねぇー本当に新婚旅行には行かないの?」
「お互いに仕事があるし―――」
「新しい人が見つかるまでは――― 雇われママだけどお店を勝手に閉められないから」
妻のゆり子は自分が新婚旅行に行く当事者のように、それは残念がって目の前の2人に聞いた。木村と珠希さんは、お互いに見つめ合ってから苦笑いを浮かべて答える。
「キム兄のお父さんも元気なんだからお店は任せちゃえばいいのに――― 珠希さんもオーナーさんだっけ? 遠慮しないで休んじゃえばいいのよ。いつまでも珠希さんに頼ってたってずっと働くわけじゃないんだから」
ゆり子の遠慮のない発言が続く。
木村が結婚した途端に、珠希さんとの距離を一方的に詰めるゆり子。仲良くしたい気持ちは分かるが、もう少しゆっくりでもいいじゃないのかと思ってしまう。
グイグイくるゆり子に困り顔の珠希さん。
不躾な質問に対して少し悲しそうでもある珠希さんの表情を見て、俺の脳裏にはいやらしい笑みを浮かべた吾妻の厳つい顔が浮かんでいた。
と、対角に座っている珠希さんの視線が、周囲に悟られないほどの一瞬だけこちらに向けられた。そして俺は―――、反射的に口を開いていた。
「まあーそのー、あれだあれ。それぞれの家庭にはそれぞれの事情ってものがあるからな。慌てて旅行に行くよりも落ち着いた時期に長期のバカンスってやつもいいと思うぜ」
「ああーそれ羨ましい。その時は私たちも一緒に行こうかなー」
「いいわねー、ゆり子さんたちも一緒に行きましょう」
話の方向性が変わった。助け舟と言えるものではなかったが、珠希さんはチラリと俺の方を見て小さく笑顔を作った。
その表情にドキリとしたことは、隣のゆり子と目の前の木村には絶対に悟られてはいけない。勿論、珠希さんにも・・・・・・。
挨拶を終えた木村夫妻は我が家を後にした。
遠ざかる2人の背中を見送りながらゆり子が言った。
「幸せそうで安心した」
「だな」
「―――うん。でもさー、できてないんだよね」
「ああー、どうにかしてやりたいけど・・・・・・」
「専門医は? 泌尿器科とか心療内科とか――― それか産婦人科なのかな? 不妊治療でもないし・・・・・・」
表面上は幸せそうな2人に見える。その実は―――木村の女性恐怖症の問題と珠希さんの抱える事情がある。
それに俺の知る限りで、珠希さんの抱えている事情は深刻なものに思えてしかたがなかった。
現状では珠希さんの問題を、同性のゆり子に相談することは妥当ではない気がする。それに珠希さんの意向を無視して夫である木村に話を向けることも許されないと考えていた。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
9月の下旬―――。
真夏に比べ、かなり日が短くなっている実感がある。でも、残暑は厳しいままで夕刻の気怠さは真夏となんら変わらない。
俺は口から漏れ出しそうな欠伸を堪えながら、パソコン画面を眺めて退社までの時間を過ごしていた。
―――と、俺のスマホに知らない電話番号からの着信があった。
木村の女性恐怖症や珠希さんの抱える事情について、ぼんやりと考え事をしていた俺は不用意に電話に出てしまった。
「もしもし、海原さん?」
「・・・・・・」
まさかとは思ったが、低い男の声に聞き覚えがあった。返答に困った俺は相手の出方を待った。
「もしもし、聞こえてるか? もしもし――― 海原さん?」
「は、い・・・・・・」
「あんたからの連絡を待ってたんだぜ」
「あ、あのーどちら様でしょうか?」
「俺の店と結婚式で会っただろうがー、忘れたのか」
どうして俺の携帯番号を吾妻が知っているのだろうか―――、動揺を隠せない俺は職場の目を気にして席を立った。
スマホを耳に当てたまま使われていないミーティングルームへと駆け込んだ。
「たしか――― 吾妻さん? でしたっけ?」
親友の奥さんになった人―――珠希さんの雇用主で、嫌がる素振りの珠希さんに何かしら詰め寄っていた男の顔を忘れてはいない。
でも、吾妻と関係を持つことに抵抗を感じていた俺は、はぐらかすような返答になってしまう。
「ふん、よく覚えてるじゃねぇか」
「・・・・・・」
「まあ、いい。俺はあんたからの連絡を待ってたんだぜ。面白れーもの見せてやるって言っただろうがー、忘れたのか?」
「別に――― 結構ですから」
「いやいや、あんたは興味があるはずだぜ」
「な、ないですよ。何のことだか知りませんが、別に見たくはありませんから」
「あんたが来てくれたらきっと珠希は悦ぶと思うぜ」
「―――珠希さんが!?」
「あんた――― やっぱり興味があるんだろ?」
「別に興味なんて・・・・・・ でも――― 何で私なんですか?」
「あんたがいいんだよ。俺の店で――― あんたが俺と珠希の話しの邪魔をしただろ。あの時の珠希のあんたを見る目――― 年甲斐もなく嫉妬したぜ」
「あ、あれは、あの時は、その・・・・・・」
「勘違いするなよ。俺はあんたのことを気に入っているんだぜ。だから招待してやるって言ってんだ。な、珠希も待ってるからよ――― 店に来いって」
粘着質な言い方で、あくまでも自分の要求を通そうとする吾妻に嫌悪感を抱いてしまう。気は進まなかったが、珠希さんの名前を出されると無下にもできない。
どこか含みのある言い方に違和感を覚えたが、もしかしたら珠希さんの抱えている事情に近づけるかもしれない―――、そう考えた俺は、「じゃあ、少しだけなら」と返答していた。
「―――そうか! よし、今夜はどうだ?」
「こ、今夜って・・・・・・」
「来ないって言うんなら、この話はなしだ。珠希が悲しむだろうがな」
「・・・・・・行きます」
内心を揺さぶられ、相手のペースにまんまと乗せられた俺は電話を切るとすぐに、『仕事で遅くなる』とゆり子へLIMUでメッセージを送った。
残業や急な接待などの業務はいつものことなのでゆり子からの返信ない。ついた既読に、少しだけやましい気持ちになった。
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