エンドロールが終わって館内が明るくなる直前まで、妻と田中の様子を窺っていた。肩を抱かれた妻は、身じろぎもせずに頭を田中の肩へ預けていた。
―――いい歳をした大人が何やってるんだか・・・・・・
僕は怒りの感情を通り越して、あきれ果ててしまった。
夫ではなく、知り合って間もない若い男の体に恥ずかしげもなく身を寄せる妻。裏切り行為を目の当たりにして、気が付くとメインデッキの中央階段を1人で駆け下りていた。
あのまま劇場で2人の前に出て行ったとして、妻を非難し間男から謝罪の言葉を聞くことが出来たのかもしれない。
しかし冷静によく考えてみれば、キスをするとか一般的な浮気の一線を妻が越えたとは言えず、妻は旅先の解放感で少しだけ大胆になっているだけなのかもしれないと、擁護する気持ちも生まれた。
僕の中では怒りや嫉妬、それに妻を信じたいという強い気持ちが入り混じっていた。
客室に戻ると電灯は消え中は薄暗く、田中の連れで渡辺という名の学生の姿はなかった。1人になりたかったのでちょうどいい。大きな溜息をつき下段の寝台に潜り込んで目隠しのカーテンを閉めた。
―――映画館の出来事は絵理の裏切りではない。ちょっと開放的になっているだけだ。これ以上の事は分別のある妻自身が許さないだろうし、僕もそう信じる。
渡辺君には、僕が映画館の場所を尋ねた事を黙っておいてくれるように頼もう―――。
寝台に横になって、あれこれと考えを巡らしながら妻と田中が戻ってくるのを信じて待った。
―――程なくして、妻と田中が2人一緒に戻ってきた。
妻を待つ間、もしかしたら映画館を後にして2人きりで別の場所に移動するのではないか、と疑念が生まれ5分程の待ち時間がその何倍もの時間に感じていた。
妻が戻ってきてくれたことで、先ほど感じた怒りや嫉妬の感情が若干だが和らぐ。
「あなた、大丈夫?」
電灯をつけることなく目隠しのカーテン越しに妻が声を掛けてきた。僕は返事をしようかどうしようかと迷ったが、この期に及んで2人がどのような会話を交わすのか少し興味が湧いた。妻が僕の信頼に応えてくれるところを見たくて、寝たふりをした。
「寝てるの? もう9時過ぎてるのよ。お腹が空かないの?」
寝ていると思った僕に気を使い、妻の声が段々と小さくなる。
「大内さんの船酔い酷かったですから。このまま朝まで寝かせておいたらどうですか?」
妻の気配の後ろから、調子のいい田中の声が聞こえた。
「朝まで?」
「はい。酔い止めには眠くなる成分が含まれていて、たぶん無理に起こさなければ朝までぐっすりと
眠れるはずです。明日の北海道の道程を考えるとその方がいいと思いますよ」
「・・・・・・そうね。じゃあ、このまま起こさないことにするわ」
「はい」
調子のいい田中の提案に、あっさりと同意する妻・・・・・・。
「それじゃあ、夜ご飯どうしよう? 売店でおにぎりでも買ってこようかしら」
誰に向けた言葉なのか、妻が呟くように言った。
「僕が買ってきますよ。映画に付き合わせたのはこっちですから」
梯子を上る気配があり、隣の寝台の上段の方から田中の声が聞こえた。手荷物を開ける音も聞こえる。
「具は何がいいです? 鮭とか昆布とか? それから・・・・・・ ちょうど渡辺がいないからラフな格好に着替えられたらどうです? 僕らがいると着替えにくいかと」
さり気なく女性を気遣う発言で妻の行動を促す田中。やはり女の扱いに慣れているようだ。
「田中君はモテるでしょう? 女性に気が利く男は案外少ないのよ。じゃあ遠慮なく、私は鮭ね」
「いえいえ、モテませんよ。彼女いませんから。っと分かりました鮭ですね。他におかずがあれば適当に買ってきます」
寝台から慌ただしく下りる音が聞こえ、客室から田中の気配が消えると、妻は寝台の上段に上がってカーテンを閉めた。
やはり調子のいい田中の言葉に、妻は巧みに誘導されているような気がしてしょうがない。寝たふりを続けつつ、妻に対して声を掛けたい気持ちを一生懸命に抑え込んだのだった。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
妻の着替えが終わり、暫くして田中が売店から戻ってきた。僕の寝台の上方から、
「あっ、おかえりなさい」
と妻の声。ウキウキしているという表現が適切だろう、嬉しそうに田中を出迎えた。
「戻りました。鮭がなかったんで、何種類か買ってきました」
「え~いいのに。気を遣わせてごめんなさいね」
「いえいえ、大丈夫ですよ。余った分は渡辺が食べますから」
「上からごめんなさいね」
「いえ、落ちないように気をつけてください」
ゴソゴソと音が聞こえて、買ってきた物を妻が寝台の上から受け取っている様子が窺えた。
「一緒に食べよ」
「はい」
妻の誘いに、元気よく返事をする田中。
隣の寝台、上段へ移動する田中の気配がして暫くの後―――、「頂きます」と2人同時に声が聞こえた。
「ねえねえ田中君、そういえば渡辺君は何処に行ったのかしら?」
食事中の2人の会話に、寝たふりを続けながら耳をそばだてる。
「多分というか、あそこでしょう」
「あそこ?」
「はい。あそこっていうのは車庫のことです。あいつバイク狂なんで、明日に備えてメンテ中だと思います。あいつがバイクを触りだすと当分の間は戻ってきませんから」
「ふ~ん、そうなんだ」
「向こうへ着いたら―――」
2人の会話の内容は、寝たふりをしている自分が馬鹿らしく思える程にただただ普通で拍子抜けした。映画館で覗き見た、恋人同士の様な雰囲気は感じられず僕の不安な気持ちは杞憂だったようだ。でも少しだけ、ほんの少しだけ妻の言葉の端々に感じる甘えたような響きが気になった。
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