キスを自らせがんだ妻―――体はおろか良妻として夫に寄り添ってきた心までもを若い燕に許した事に深い悲しみを覚えた。
一度射精を終えてしまうと、好奇心とか興奮といった気持ちは何処かへ消え去り、頭上から聞こえるキスを交わす音に耳を塞ぎたくなった。
耐えられない思いで僕が薄い掛布団を頭から被ると、出入口に人の気配がした。頭上の2人が息を殺す。
「―――うん? みんなもう寝たのかな・・・・・・」
どうやら渡辺君が戻ってきたようだ。小さな声で呟いてゆっくりと客室に入ってくる気配。
どうなってしまうのかと気が気ではなかったのは僕だけみたいで、頭上のカーテンは意外にもあっさりと開かれた。
「遅かったな。いま奥さんに北海道のガイドブックを見せてたんだよ」
「そ、そうなのよ」
堂々と言って除ける軟派な田中は、やはりこういう場面は慣れてるようだ。不慣れな妻は少し慌てたように早口だった。
「田中がお邪魔してすみません。旦那さんは寝たんですか?」
「船酔いが酷かったからね。ぐっすり眠ってるわ」
「・・・・・・そうですか。じゃあ俺も寝るかな」
僕の存在をそれとなく確認した渡辺君。他意はないのだろうが、僕が2人を探して映画館へ向かった事実には触れなかったのでホッとする。
渡辺君が僕の隣―――通路を隔てった向かいの寝台の下段に腰をおろした気配があった。
「奥さん、迷惑だったら田中の奴をそこから追い出しましょうか?」
「い、いいのよ。渡辺君――― メンテナンス?」
「メンテってほどじゃ―――」
「そ、そうなんだ」
「渡辺、旦那さん起きちゃうぞ」
「おっと、悪い」
妻と渡辺君の会話に田中が口を挟んだ。今まで大きな音を立てて、僕の頭上で痴態を繰り広げていた張本人なのだが・・・・・・。
「夫はぐっすり眠ってるみたいだから大丈夫よ。でも、そうね、そろそろ休みましょうか」
「そうですね。ガイドブックは下船までお貸しします」
そう言った田中の気配が寝台の軋む音とともに隣の寝台へと移動した。
そして薄ぼんやりとあった妻の枕元の電灯が消え、暫くして隣の寝台の電灯も消えた。
真っ暗になった船室―――暫く今日起きた衝撃的な出来事について考えていた。しかし妻の不貞を目の当たりにして心身ともに疲弊していた僕は、いつの間にか意識を手放していた。
◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇
―――ピロロン、ピロロン、ピロロン
夜半過ぎ―――。
聞きなれた電子音で目が覚めた。
暗闇で耳を澄ます。じっとしていると、出航したての頃より船の揺れが穏やかになっていることが分かる。
頭上からゴソゴソと何かを探るような音が聞こえてきて、寝台がみしりと小さく軋んだ。どうやら妻が目を覚ましたようだ。手荷物でも漁っているのだろうか。
徐々に頭が覚醒し、先ほど聞こえた電子音の正体に思い当たる。それは普段聞き慣れたもので、妻のスマートフォンから発せられる音―――「シンプルなのがいい」と言って妻が設定している通話アプリの通知音だった。
隣の寝台を気にしつつ、目を覚ました妻に声を掛けようかどうしようかと迷っていると、寝台のカーテンがゆっくりと開く音が聞こえた。
音の方向からして目隠しのカーテンが開いたのが隣の上段、田中の寝台であることが分かる。
寝台を降りた田中の気配は、そのまま静かに船室の出入口の扉を開けて通路へと出て行った。
もしかしたら妻の元へ行くのではないのか、と一瞬思ってしまったが取り越し苦労のようだ。
田中も僕と同じく妻のスマホの音で目を覚まし、トイレにでも行ったのではないのか、と考えた。
―――しかし、暫くたっても田中が帰ってくる気配はなかった。
一方、頭上の妻はというと―――。
寝台の軋みもなくなり、静かになってしまった。
相部屋なのだからマナーモードは常識だろうと思うのだが、こんな深夜の時間帯にメッセージを寄こす非常識な人間にも腹が立つ。
頭上の妻が再び眠ったものと考えた僕の瞼が重たくなってきた時だった。
―――ヴゥーン、ヴゥーン、ヴゥーン
今度は頭上から低音の振動音が聞こえた。
マナーモードにする時に選択できるバイブレーションの音だ。深夜、周りが寝静まっているところでは思いのほかよく響く。
バイブレーションが止まると、寝台が軋みゴソゴソと衣擦れのような音が聞こえ、今度はハッキリと妻の起き出す気配を感じた。
梯子を伝って静かに寝台から下りる気配。僕の寝台の目隠しのカーテンは開けられることはなく、妻はそのまま船室から出ていってしまった。
頭の中に大きな疑問符が生じる。一呼吸おいてから体を起こした。
冷え冷えと覚醒してゆく頭で考えてみる。
―――妻のスマートフォンの通話アプリの通知音。その後に客室を出て行った田中。次に通知音を消していた妻のスマートフォンのバイブレーションの振動音。
直感でバイブレーションの振動音も通話アプリの通知だったのでは? と考えてしまう。そして田中が戻らない現状で、妻までもが客室を離れてしまった事実―――。
ただ単に妻はトイレに立っただけなのかもしれない。しかし妻と田中は、セックスまでには至っていないが、既に一線を越えている関係と言えた。
普通に考えれば、無料通話アプリを使ってお互いに連絡を取り合ったのではないのだろうか。生じた疑念が胸の奥で形を伴って広がってゆく。
妻を探さなければと焦燥感に駆られ寝台から飛び起きようとした。が、しかし―――トイレにいなかったら何処を探せばいい? と自問して動きが止まった。
さすがに世界を一周する豪華客船のような大きさではないが、北海道を目指すフェリーの中は案外に広い。2人して示し合わせ何処かに身を隠してしまっていたら―――立入禁止場所を含めて考えると途方に暮れた。
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